似島俘虜収容所―その概要と特色
                                瀬戸武彦
 
似島(にのしま)俘虜収容所は、広島港から南西に約2キロ、広島湾に浮かぶ似島にあった(写真1参照)。周囲16キロほどの小さな島で、1キロ南には有名な江田島がある。似島には今日、広島港からフェリーに乗船して20分ほどで、似島港もしくは似島学園港の桟橋に着く。標高278メートルの安芸小富士(あきのこふじ)と呼ばれる、富士山に似た山を持つこともあって、平地面積はごく僅かしかない。島の西側の家下(やじた)地区には古くから島民が住んでいたが、東側の似島学園港側には平地は僅かしかない。つまり社会福祉法人の似島学園、似島臨海少年自然の家(写真2参照)と平和養老館、そして似島小中学校のある三ヶ所である。第一次大戦時にドイツ兵俘虜収容所があったのは、現在似島臨海少年自然の家と平和養老館になっている場所である(図版1参照)。
収容所の所長には、大阪俘虜収容所長の菅沼來中佐(後に大佐)が引き続いて所長として就任し、大正9年(1920年)41日の閉鎖までその任にあった。収容所の敷地の総面積は約16,000u(4850坪)だった100メートル競走が直線で取れる校庭を持つごく平均的な小学校の敷地、それが約2000坪と言われていることから、小学校の敷地二つ半ほどの面積に当たる。敷地には2面のテニスコートと運動場が設けられ、また4棟の兵卒用バラック、准士官・下士官用1棟、将校用1棟等の建物の総面積は約3500u(1060だった(「似島俘虜収容所要図」(図版2参照)及び収容所北の斜面から写した写真3参照)
 
似島俘虜収容所の開設に際しては当初、大阪俘虜収容所と松山俘虜収容所の二箇所の俘虜を収容する案もあったが、最終的には大阪俘虜収容所の俘虜のみの収容になった(図版3参照)。550名の収容俘虜の内160名が、文献によっては非戦闘員とも記されている。つまり、国民軍所属だった。後に触れるカール・ユーハイムなどがこれに該当する。なお先任将校、つまり階級が一番上位で、かつ早くその地位に就任した将校は、青島防御の主要3部隊の一つである、海軍膠州砲兵隊長のグスタフ・ハス(Gustav Hass)海軍中佐であった。
 
似島に収容所が設置されることになった遠因は、日清戦争時代に発する。中国大陸や朝鮮半島からの帰還兵が持ち込む病原菌を防ぐために、明治28年(1895年)6月に、広島湾内の似島に臨時陸軍検疫所が設置された。最終的には検疫所の名称になったこの消毒所の設置に尽力したのは、臨時陸軍検疫部事務官長の後藤新平(1857-1929)であった。後藤新平は後に台湾民生長官、満鉄総裁、東京市長になったが、「大風呂敷」の異名でも知られた後藤は医師でもあり、その生涯の前半を検疫行政に尽力した人物だった。今日、旧第一消毒所跡の似島学園の構内には、後藤新平の銅像が建てられている。
 
この似島に、日露戦争時代に陸軍第二消毒所が設置された。日露戦争は、日清戦争とは比較にならないほどの傷病兵が出現した。またロシア兵俘虜も約8万人と大量に出て、第一消毒所は俘虜収容所に当てられた。大陸から引き揚げてきた兵士は、新たに設置された第二消毒所で消毒を受けて、それから宇品港に上陸したのである。やがては大陸から引き揚げた軍馬も消毒された。特に傷を負った馬、菌に冒された馬は第二消毒所の近くで焼却された。馬匹(ばひつ)検疫所と呼ばれる施設の消却炉跡の一部が移設されて今日も遺されている。似島検疫所は、日清戦争、日露戦争、北清事変、第一次大戦、シベリア出兵、山東出兵、満州事変から日中戦争、太平洋戦争と、実は近代日本の全ての戦争にかかわった場所であった。それは軍都広島を擁する広島湾にあったことが大きく関係していると考えられる。
第一消毒所は日露戦争時代にはロシア兵俘虜の収容所とされた。約9ヶ月間、最大時には2391名のロシア人捕虜が収容された。第一消毒所と第二消毒所の違いはあるが、極めてよく似た敷地と施設規模から、かなりすし詰め状態での収容ではなかったかと思われる。ドイツ兵俘虜の収容に際して、当初大阪、松山の俘虜を合わせた約1000名収容の案があった。それが立ち消えになったのは、すし詰め状態になることを避けたためかもしれない。
 
似島収容所が設置されたのは大正6年(1917年)219日、大阪俘虜収容所の閉鎖に伴い、550名の俘虜を移しての開設である。この550名という数は、似島俘虜収容所における最大収容数であるが、下記(1)で掲げるように、必ずしも似島収容所で生活を送った俘虜の数ではない。書類上の数といえる。
大阪から似島へ移送された時の状況は、「大阪俘虜収容所記事」に詳述されている。その大要を以下に記してみる。
 
「大正六年二月十八日午前九時、収容所と衛戍病院を徒歩、及び人力車(負傷兵)で出発し、十一時に大阪駅到着、午後十二時十分乗車、午後一時十七分発車、翌日十九日午前七時二十三分宇品に到着した。なお、途中の広島駅で広島衛戍病院に引き渡される者が下車した。平船三隻を汽船で曳航して午前九時似島に着いた。」
 
また、大正6217日付けで、山中呉鎮守府参謀長から大角海軍副官宛てに以下の文書が発信された。原文のまま引用する。
 
「似島ニ獨国俘虜収容ニ関シ第五師団ニ於イテ執ルヘキ処置左記ノ通リ申出候ニ付之ニ同意シ尚海上ニ於ケル警戒ヲ厳重ナラシムル様希望致置候
一 船艇ノ行動ヲ目視セシメサル為海上ヲ板塀ニテ囲ムコト
二 構外散歩ヲ許サルコト
三 衛兵ハ将校以下十三名一週間交代ニテ駐勤ス
四 俘虜ノ通信ハ一週間一回ニシテ将校一名之ヲ検閲ス
五 必要ニ際シ時ニ携帯品ノ検査ヲ行フ
 
右ノ外第五師団以外ニ於テハ憲兵二名ヲ常置シ巡査十七名駐在シ海面ハ宇品水上警察署之ヲ担任ス
尚来ル十九日俘虜似島到着ニ付同日午前八時ヨリ九時半迄似島附近ニ現出セサル様軍港附近ニ在ル船艇ニ先導セラレタシ」
 
俘虜の収容は陸軍の管轄であるが、似島収容所の場合は島にあったことや、すぐ目の前に海軍兵学校のある江田島もあったことから、海軍も関わったことがこの文書からも明らかである。しかも収容所の敷地の海側に面した個所を板塀で囲う事が、海軍からの要請であったことも窺われる。
 
(1) 似島俘虜収容所の収容俘虜数
 ところで似島収容所には何名の俘虜が収容されたのであろうか。最新の文献である『我ら皆兄弟とならん―日本におけるドイツ人捕虜1914-1920』では、548名の数字が挙がっている。筆者はこの数字を追跡調査してみた。その結果は、同じ数字に辿り着いたとも、また辿りつかなかったとも考えられる。筆者の推論を以下に示してみる。なお、『鳴門市ドイツ館館報』第15号に、田村一郎ドイツ館長による「大阪俘虜収容所記念碑落成」の文章が掲載されている。その中で田村氏は、「550名ほどが、23ヶ月ほどを大阪で過ごした」と記している。この550名という数字は以下に記すように、筆者の追跡数と同じともいえる。
 以下のA)、B)の各1)の事項、すなわち「大阪収容所俘虜数」及び「大阪他収容所俘虜数」と「俘虜番号」については、拙稿「青島(チンタオ)をめぐるドイツと日本(5)−独軍俘虜概要(2)」、もしくは「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」ホームページの「俘虜名簿」を参照頂きたい。
 
A)
1) 大阪収容所俘虜数(戦争終結直後に移送された数):俘虜番号38324117286
2) 大阪収容所から静岡収容所へ移送された俘虜2名:アウグスト(Jacob August)、ブロベッカー(Huber Brobecker
3) 大阪収容所から丸亀収容所へ移送された俘虜1名:ツィンマーマン(Max Zimmermann
4286名−3名=283
 
B)
1) 大阪他収容所俘虜数(大正4年以降に日本へ移送された数):俘虜番号44654715251
2) 大阪で死亡した俘虜1名:ゴル(Hermann Goll
3) 青島から上海へ逃亡した俘虜1名:ブーザム(Karl Busam
4) 青島及びその周辺で死亡した俘虜:6
5) ヤップ島で宣誓解放された俘虜:9
6) 丸亀へ移送された俘虜1名:トロイケ(Richard Treuke
7) 久留米、青野原、板東の各収容所俘虜3名:シュトレンペル(Walter Strempel)、ヴェークナー(Ferdinad Wegner)、ギュンター(Otto Günther
8251名−21名=230
 
C
1283名+230名=513
2) 福岡収容所から大阪収容所へ移送された俘虜:37
3513名+37名=550(大阪収容所の最終俘虜数にして、似島収容所の当初の俘虜数)
 
但しここで注意を要する事は、収容所の管轄俘虜数と実際に収容所にいた俘虜数は必ずしも合致しないということである。下記(2)の1)のクラフトは、大正6年(1917年)31日に大阪衛戍病院で死亡している。この時点ではすでに大阪収容所は閉鎖され、クラフトは似島収容所管轄の俘虜となっているが、似島へ移送するには無理だったものと思われる。10日後には大阪衛戍病院で死亡しているからである。また「大阪俘虜収容所記事」には、似島への移送時に広島駅で下車して、広島衛戍病院へ送られた者がいたことが記されている。それが約半年後に死亡したグララートなのか、また何名いたのかは必ずしも明瞭ではないが、大阪から全員が無事に似島収容所に着いたわけではないことだけは明らかである。仮にクラフトとグララートの2名を550名から差し引くと548名になる。『我ら皆兄弟とならん』で記載された最大収容数に合致する。
 
(2)似島収容所管轄下で死亡した俘虜
 
1) クラフト(Diederich Kraft):大正6年(1917年)31日、大阪衛戍病院で死亡。
2) グララート(Hans Grallert):大正7年(1918年)812日死亡。
3) パーペ(Otto Pape):大正7年(1918年)318日死亡。
4) ロックザー(Alexander Rockser):大正7年(1918年)731日死亡。
5) ツェフラー(Albert Zeffler):大正8年(1919年)327日死亡。
6) シュルマン(Fritz Schürmann):大正8年(1919年)46日死亡。
7) ポッター(Karl Potter):大正8年(1919年)73日死亡。
8) ブリルマイアー(Joseph Brilmayer):大正9年(1920年)116日死亡。
9) ハルプリッター(Robert Halbritter):大正9年(1920年)121日死亡。
 
日独戦争は一ヶ月半で終わったが、欧州では戦争は一向に終結せず、1年経っても、2年経っても終わる気配がない。そこで各地に分散されていた収容所を整理・統合することになり、やがて収容所としては、習志野、名古屋、青野原、似島、板東、久留米の6箇所となった。この似島俘虜収容所が他の収容所と異なる最も大きな点は、唯一島の中に設けられた収容所だったことである。それが原因なのかは即断できないが、似島俘虜収容所については、その実態が余り分かっていない。整理統合後の習志野、名古屋、青野原、似島、板東、久留米の6収容所の中で、似島俘虜収容所は最も情報量が少ないといえる。先に触れたように、周辺部には海軍の要衝地が多かったことから、板塀で海への視界が遮られていたことは、収容所内の規律、統制も厳しかったことを物語っているのではないだろうか。
 
 整理・統合後の収容所では、やがて各種の展覧会や音楽会、スポーツ大会が開かれた。似島での各種行事等について、宮崎佳都夫氏の『似島の口伝と史実』を参考に以下触れてみる。
 
 講習会
 収容俘虜の73パーセントが何らかの講習会に参加した。46名の講師陣により、47のコースが設けられ、各コースには平均3050名の受講者があったと言われる。その種類は、ドイツ語、日本語、英語、フランス語、スペイン語、ロシア語、中国語、数学、機械工学、建設工学、電気学、経済学、法学、歴史、タイプライター等である。
 
 演劇活動
 大阪俘虜収容所時代から始まり、夏季には野外公演を6回、収容所内に施設ができると一気に活発化して、16人の台本作家が出現し、上演作品は20本以上に達した。チェーホフの『熊』やルートヴィヒ・トーマの『一等車』などが上演された。トーマの作品は各地収容所で上演されている。バイエルン方言を用いた戯曲だったが、当時は人気があったものと思われる。
 
 新聞の発行
 大阪俘虜収容所時代の大正5年(1916年)6月から発行されたものを引き継いで、日刊紙「似島収容所新聞」(Zeitung des Lagers Ninoshima)が発行されたが、残念ながら今日その全容は分かっていない。ただ、「似島獨逸俘虜技術工藝品展覧會目録」(図版3)の記すところによれば、当初は主として日本の新聞記事をドイツ語に訳したものが多かったようである。後に収容所内の出来事を記す記事も掲載された。
  
俘虜技術工芸品展覧会
 大正8年(1919年)34日から広島県物産陳列館、今日は「原爆ドーム」で知られる建物で上記展覧会が開催された。「似島獨逸俘虜技術工藝品展覧會目録」には、俘虜たちがどのようなものを出品したかが掲載されている。9日間で16万人の広島市民が訪れた。出品内容は、写真、油絵、水彩画、ペン画、額縁、チェス盤、軍艦や漁船の模型、似島収容所の模型、火鉢、靴、編み物、蒸気機関車や蒸気船の模型、蹄鉄、大砲、文鎮、昆虫の標本、鳥篭、鉱物・岩石の標本、スリッパ、幾何学のノート、家の設計図、マッチ棒によるヴァイオリン・チェロ、各種革製品、各種編み物、薬品の調合剤、鉄筋コンクリート構造物、晴雨自動計測器など(図版3参照)。
 
 芸術活動
 大正8年(1919年)518日には、広島市内で音楽会が開催された。しかしその内容については、ほとんど分かっていない。
 
スポーツ活動
 収容所内で日常的に、サッカーやテニス等の各種スポーツが行われていたが、ここでは特に注目に値するサッカーの対外試合について触れてみる。
大正8年(1919年)126日、開校まもない広島高等師範学校の運動場で、似島の俘虜と広島高等師範学校、県師範学校、付属中、一中とのサッカー交歓試合が行われた。二試合おこなった結果は、5060で、俘虜チームの圧勝であった。
サッカーチームは大阪収容所時代に結成されたものと思われる。きれいなユニホームを着たイレブンの写真が今日遺されているが、イレブンの足元中央に置かれたサッカーボールには、「D.Mannschaft Osaka 1916」と記されている(写真5参照)。大阪から似島への移送は大正6年(1917年)のことである。蔦が絡んだ背景の建物は大阪収容所の建物を推測させる。
平成18年(2006年)122日(日)、フジテレビ系ネットで特別番組「歴史発掘スペシャル ドイツからの贈りもの―奇跡の絆の物語」が全国ネットで放映され、番組の中で似島サッカーチームが大きく取り上げられた。なお拙著『青島(チンタオ)から来た兵士たち』で、師範学校等の生徒たちと試合をした俘虜イレブンを、似島(大阪)第1チームと考えた。しかし、その後手許の資料を調べたところ、昭和59年(1984年)1111日付けの『毎日グラフ』に「第2フットボールチーム」の写真があることに気がついた。その写真のイレブンの顔ぶれ、及び「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」の掲示板に掲載された山本氏の写真から、対戦したのは似島(大阪)イレブンの第2チームであったことがほぼ確定された。第2チームのイレブンが勢ぞろいしている面々と、試合後の記念写真(写真6参照)に写る俘虜の顔ぶれがほぼ完全に一致しているからである。
 
俘虜による労役
 労役は各収容所で行われていたが、『欧米人捕虜と赤十字活動 パラヴィチーニ博士の復権』(大川四郎編訳)205-6頁には、「似島収容所での捕虜らの主たる不満は、いわゆる「ロウエキ(労役)」に在ります。(中略)毎日交代する労働分遣隊を組んだ捕虜らは、日当4銭で土砂を手押し車に乗せ、広島市内各地に運んでいきます。他の収容所では「ロウエキ」は通常きつい苦力労働ではなく、捕虜らからは、むしろ恰好の気分転換として歓迎さえされています」、と記されている。
 似島俘虜収容所研究家の宮崎佳都夫氏によれば、島の収容所の近くにはかつて製針工場があって、そこでの労役もあったとのことである。解放間際には広島市内の各種製造所で、労役というよりは日本人技術者への指導が行われたことは、後述するヴォルシュケの項でも明らかである。
 
 遠足
安芸の小富士という絶好の景勝地があったが、俘虜のハイキング等は行われなかった。その理由は既に触れたように、海軍の要衝地が近くあったからと考えられる。しかし解放間じかになった大正8年(1919年)11月に、宮島の厳島神社への遠足が行われた際の写真が、当時の新聞に掲載された。
 
最後に、似島収容所俘虜の内から、特色あると思われる20名の俘虜を採り上げてこの稿を締めくくりたい。
 
1Ehrhardt(エーアハルト),John Theodor1894-1950):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。1981年当時ハンブルクに在住していた写真家藤井寛氏は、エーアハルトの妻エリーゼ(Eliese)から、エーアハルトの遺品である「写真帖」を見せられ、その貴重な写真を「新発掘 70年前の俘虜収容所」の記事の中で発表した(『毎日グラフ、19841111日号』)。以下はその記事からの情報である。写真はごく一部が似島の写真であるが、他の30枚の写真は全て大阪俘虜収容所で写されたものである。ヴァイオリンを手にするエーアハルトを始め37名が写っているものがある。他には、本国から届いたクリスマス・プレンゼントの受領、日本人理髪師による散髪、ドイツ風の雪だるま、大阪及び似島での芝居風景、収容所内の売店、似島のポンプ場風景等33枚である。写真には、大阪収容所で結成されたサッカーの「第2チーム」イレブン11名が写っている写真(裏面には、「郵便はがき」の文字がある)もある。なお、この中には、後述するヴァルツァー(Walzer)の遺品中の写真と同じ写真が8枚見られる。「『写真帖』と私」と題された藤井氏の文章によれば、エリーゼはドイツから収容所にいるエーアハルトに手紙を書き送り、1916722日にエーアハルトに宛てて送った、エリーゼと料理学校での女友達と並んで撮ったスナップ写真の葉書が遺されている。1924年に二人は結婚し、一男五女に恵まれた。エーアハルトはハンブルクで運送業を営んでいたが、1950128日に交通事故で死亡した。ブレーメン出身。
2Hass(ハス),Gustav1872-1932):海軍膠州砲兵隊長・海軍中佐。日独戦争では海正面堡塁指揮官を務めた。青島時代はキリスト小路に住んでいた。1916424日付で海軍大佐の辞令が下りたが、日本側はその辞令を承認しなかった。1917131日、上海滞在中のクルーゼン(Dr.Georg Crusen,1867-1932)元青島高等判事に宛てて大阪収容所から手紙を出した。その内容は収容所での給与に関する事であった。将校は日本の将校と同額の給与、つまり少尉は40円、中尉は5475銭を受けているが、少なくとも75円は必要というのがハスの見解であった。その内訳としては、食事代に35円、下士卒手当てに3円、肌着5円、暖房及び入浴設備代3円、靴修繕費5円、衣服10円、医療衛生費3円、新聞書籍費6円。ただ比較のために挙げると、東京の兵器廠に務める役人は110時間勤務で月額40円から44円である、との報告をしている【Bauer,Wolfgang:Tsingtau 1914 bis 1931,50頁】。大戦終結してドイツに帰国後、『青島攻防戦における海正面堡塁の活動』の報告書を提出した。ヴィルヘルムスハーフェン出身。
3Heise(ハイゼ),Johannes1882-1969):海軍膠州砲兵隊第1中隊・副曹長。金属製建具等組み立て職人だった。1902年、12年の予定で海軍に応召した。1913年、休暇で郷里に戻った折、一年後には結婚を約束した後の妻とは結局7年離れ離れとなった。ハイゼの数多くの遺品は、娘のエルゼ・ハイゼ(Else Heise)によってヴュルツブルクのシーボルト博物館に寄贈された。大戦終結して帰国後、ハイゼは直ちに結婚し、また郡役所に勤務したが、従軍期間が長いことから、倍の勤務と換算され、ほどなく年金生活に入った。ハイゼは収容中、日本語も中国語も習得しようとは全く考えなかったが、苗字ハイゼを漢字で当てた指輪の印を持ち帰った。それはハイゼ(Heise)の音に近い「Hai-zi」から当てた「海子」で、海軍兵士にちょうどぴったりだと考えたものと思われる。娘のエルゼの記憶では、似島の俘虜達は時に口にするものがろくになかったことがあったが、それでもハイゼは決して日本人の悪口を言うことはなかった、とのことである。1954年ハンブルクで、かつての青島戦士の集まり「チンタオ戦友会」が開催されたが、ハイゼもそれに出席した。エルゼはやがて父の足跡を辿るべく、青島を旅行した【メッテンライター『極東で俘虜となる』82-83 】。カッセル近郊のノイキルヒェン(Neukichen)出身。
4Ivanoff(イワノフ),Valentin D.1891-):国民軍・卒。191654日、ウラジスラフ・コフラー(Wladislaw Koffler)という名のオーストリア人将校と称して青島に流れてきたが、実際はロシア軍所属の脱走兵だった。ロシア語以外はほとんど解さなかった【『日独戦争ノ際俘虜情報局設置並独國俘虜関係雑纂』より】。青島から大阪に送られ、さらに似島に移されてから、日本駐在ロシア領事に引き渡された。『俘虜名簿』で唯一「釈放」と記載されている人物。ロシアのオムスク(Omsk)出身。
5Juchheim(ユーハイム)Karl1889-1945):国民軍・卒。1908年職業学校を卒業して菓子職人になると、その年青島で菓子店と喫茶店を営むドイツ人に招かれて赴任した。バウムクーヘンを得意とし、ここで菓子職マイスターの資格を得て、青島のビスマルク街(日本による占領・統治時代は万年町)で菓子店を営んだ。1914728日(日独国交断絶して、日本がドイツに宣戦布告した823日の約一ヶ月前)、ニッケル(Nickel)副曹長を証人の一人としてエリーゼ(Elise Ahrendorf, 1892-1971)と結婚した。青島陥落時はニッケル夫人が二人の幼子を連れてユーハイム家に身を寄せていた。そこへ日本軍兵士三人が家に入り込んできた。しかし危害を加えることはなく、ニッケル夫人の二歳の子供に、角のある色とりどりの可愛らしい小さなお菓子を差し出した。エリーゼは機雷を連想して、毒かと思って立ちはだかると、兵士は自ら食べてみせた。兵士が去ったあとで口にするととても甘くておいしいお菓子で、それは「金平糖」であったという。カール・ユーハイムは非戦闘員だったとも考えられる。つまり、青島ドイツ軍の主要三部隊のいずれにも所属していなかった。最終的には国民軍所属として、戦争が終結して10ヶ月ほど経った1915年(大正4年)9月に召喚状が出されて、920日に大阪俘虜収容所に収容された。その1ヶ月半後の114日に息子カール・フランツが青島で生まれ、妻エリーゼと息子は、大戦終結してユーハイムが解放されるまで青島で暮らした。1919年(大正8年)34日、広島県物産陳列館で開催された「似島獨逸俘虜技術工藝品展覧會」では、オトマーやヴォルシュケの励ましを受けてバウムクーヘンを製作・販売した(図版4参照)。大戦終結後して解放後は「明治屋」の菓子職人として月給300円の高給で迎えられ、やがて横浜でドイツ菓子店を開いた。俘虜時代は日給換算で30銭ほど、月給では9円程度支給されたユーハイムが、解放されるや月給300円の高給取りなった。月給300円がどれほどの金額だったか、一、二の例を挙げると、明治40年に夏目漱石が破格の待遇で、朝日新聞社の専属作家として迎えられた時の月給が200円だった。また当時の海軍大佐の月給は190円ほどだった。明治末とは物価はそれほど変動していなかったと考えられる。やがてユーハイムは独立して横浜山下町に菓子店「ユーハイム」を開業した。関東大震災で店は倒壊し、1923年神戸三宮に移って再出発した。一時健康を害してドイツに帰国したが再び来日し、第二次大戦中も日本に留まった。青島で生まれた一人息子のカール・フランツは、第二次大戦に応召して194556日ウィーンで戦死した。194565日の神戸空襲で店は瓦解し、ユーハイムは失意の内に814日六甲ホテルで死去した。戦後店は再建され、妻エリーゼの奮闘によって発展し、現在もドイツ菓子の店として広く知られている【頴田島『カール・ユーハイム物語』等より】。ポンメルンのリューゲン(Rügen)郡ガルツ(Garz)出身。
6Kraft(クラフト),Diederich-1917):海軍膠州砲兵隊・2等焚火兵。191731日大阪衛戍病院で死亡、真田山陸軍墓地に埋葬された。当時35歳だった。【クラフトの死亡時点では、大阪俘虜収容所はすでに閉鎖され、書類上ではクラフトは似島俘虜収容所に移送されていることになっていた】。墓碑に刻まれていた「俘虜」の二文字は、理由及び年月日は不明であるが、今日削り取られている。ヘヒトハウゼン(Hechthausen)出身。
7Kropatschek(クロパチェク),Hans W.1878-1935):海軍東アジア分遣隊参謀本部・陸軍少尉。応召前は青島ロシア副領事館の副領事だった。帝国議会議員へルマン・クロパチェク(Hermann Kropatschek)の息子として、ブランデンブルクに生まれた。学校生活を終えると軍隊に入り、1899年少尉になった。1900年から1901年にかけて起こった義和団事件の際には、派遣軍の一員となった。1904年ドイツ参謀本部附きとなったが、1905年青島で商売に従事することになり、傍らロシア副領事館の副領事を務めた。191483日に総督府から動員令が発せられると、副領事の職を放棄して青島独軍に参加した【Charles B.BurdickThe Japanese Siege of Tsingtau53頁】。107日の晩、ベルリン福音教会の教区監督フォスカンプ(C.J.vosskamp;1859-)の家を訪問していた時、山東省の省都済南が日本軍によって占領されたとの知らせが届いた。山東鉄道並びにその沿線は既に日本軍の支配下にあったことから、その情報は伝書鳩によるものと居合わせたクロパチェクは推測した。兄が神学者だったことでフォスカンプとは親しかった【VoskampAus dem belagerten Tsingtau45-46頁】。青島時代はビスマルク街に住んでいた。妻マルガレーテ(Margarete)は、娘(12歳以上)と息子(12歳以下)の三人で大戦終結まで青島に留まった。大戦終結して解放後は、1922年まで日本に滞在した。その後郷里に戻り、1935923日イルフェルト(Ilfeld)に没した。ブランデンブルク出身。
8Kutt(クット),Paul-1947):国民軍・上等兵。日独戦争前はヴィンクラー商会(Winkler & Co.G.m.b.H.)の支配人だった。青島時代はハンブルク街(日本による占領・統治時代は深山町)に住んでいた。1915319日、他の5名の青島大商人とともに青島から大阪に送還された。送還される前の2ヶ月間ほど、日本の青島軍政署ないしは神尾司令官から、用務整理のために青島残留を許可された【『欧受大日記』大正十一年一月より。青島の大商人10名は、当初国民軍へ編入されたが、青島で築き上げたドイツの貿易・商権保持のため、マイアー=ヴァルデック総督の指示で国民軍のリストから削除されたのであった】。似島時代、リースフェルト(Liessfeldt)とトスパン(Tospann)が共同で、朝日新聞及び毎日新聞の記事をドイツ語に訳したが、時にクットも参加した。複雑な文章の時はオトマー(Othmer)予備少尉が手助けした【クライン『日本に強制収容されたドイツ人俘虜』177頁】。宣誓解放された。解放後は青島に戻ったが、1947年青島で没してドイツ人墓地に埋葬された。シュトラースブルク出身。
9Lange(ランゲ),Hermann1877-1950):第3海兵大隊第4中隊・後備上等歩兵。錠前工だった。18971016日軍隊に入り、1902年ごろに青島に赴き機関組立工になった。日独戦争の戦闘で左大腿部銃創及び骨折、右大腿部中央砲弾破片盲貫銃創により、日本移送当初は大阪陸軍病院に入院した。大阪収容所は1917219日に閉鎖されたが、同年38日時点でも大阪衛戍病院に入院していた。似島への移送時点では義肢を付けていた。1919121日、流行性感冒のため広島衛戍病院に入院し、126日に同病院で解放された【『戦役俘虜ニ関スル書類』中の附表第六号の「俘虜患者解放者一覧表」より】。なお、妻と息子は1915年ごろにドイツに帰国した。テューリンゲンのミュールハウゼン(Mühlhausen)出身。
10Morawek(モーラヴェク),Rudolf Edler v.1882-):オーストリア野砲兵第17連隊・陸軍砲兵大尉(卿)。シベリアの収容所から脱走して、中国、アメリカを経由して本国に帰ったが、やがて満州の哈爾濱市内を流れる松花江の鉄橋爆破の任務に就いた。資金10万円が上海のオーストリア領事館に預けられ、横浜港に入ったところで逮捕された。1915223日に行われた第2回目の尋問調書が、防衛研究所図書館に残されている。アルテルト(3年)、エステラー(3年)、シャウムブルク(2年半)の4人で大阪と似島の両収容所から二度にわたって脱走を企て、似島では、大正7年(1918年)8月、事前に用意した4個の竹筏を組み合わせて逃亡、巡査に発見され、似島集落で衛兵に逮捕された。4人は2年半から3年の刑を受け、広島の吉島刑務所に収監された。日独講和が結ばれ、俘虜多くが祖国へ帰還した大正9年(1920年)122日に、恩赦で釈放された。ハンガリーのセケリ(Szekely)出身。
11Othmer(オトマー),Prof.Dr. Heinrich Friedrich Wilhelm1882-1934):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・予備陸軍少尉。応召前は徳華(独中)高等専門学校教授(中国語学者)だった。1892年から1900まで ノルデン(Norden)のギムナージウムに通い、グライスヴァルト及びベルリンで学んだ。1904年学位取得、1907年末北京に赴いた。1908518日歩兵第78連隊予備少尉、1909年青島の徳華専門学校上級教師。青島時代はホーエンローエ小路(日本による占領・統治時代は治徳通)に住んでいた。1911年看護婦をしていたエリーザベト・ブリ(Elisabeth Buri,1874-1920 と結婚し、ゲルハルト(Gerhard,1912-1996)とヴィルヘルム(Wilhelm,1914-1986)の二人の息子をもうけた。19148月、第3海兵大隊予備少尉、大阪収容所に俘虜第一陣として収容されるや、多くの俘虜がまだ途方に暮れている最中、ただちに中国語の研究を続行した。このことは多くの俘虜達に刺激を与え、やがて次々に講習会が開催されるようになり、大阪収容所はさながら「学校収容所」になった、と収容所で一緒だったベルゲマン(Bergemann)海軍中尉は書き記している【《Du verstehst unsere Herzen gut63頁】。オトマーは講習会で教えるだけではなく、自らも学習の手本を示すべく日本語の勉強に打ちこんだ。小学校の国語読本から初めて、平仮名・片仮名を覚え、中国語の素養を生かして『漢字林』から漢字を習得し、『万葉集』にまで及んだ。大阪収容所、やがて移った似島収容所は、青島を中心とした中国での商売を営んでいた俘虜が多かったが、そうした商人達は折に触れオトマーの部屋に種々の相談に訪れた。似島時代のユーハイムもその一人で、広島県物産陳列館での俘虜作品展示即売会にバウムクーヘンを出品するよう勧められ、かつ励まされた。オトマー自身は講演、研究及び勉学以外では、似島でもっぱら野菜作りに励んだ。似島時代、リースフェルト(Liessfeldt)とトスパン(Tospann)が共同で、朝日新聞及び毎日新聞の記事をドイツ語に訳した。時にクット(Kutt)も参加したが、複雑な文章の時はオトマーが手助けした【クライン『日本に強制収容されたドイツ人俘虜』177頁】。妻エリーザベト(Elisabeth)は息子二人(いずれも12歳以下)と三人大戦終結まで青島で暮らした。なお、青島に残ったオトマー夫人を始め総督府の高級官吏及び知識階級者の夫人達の動静は、中国学者にして宣教師リヒャルト・ヴィルヘルムの妻ザロメの日記で僅かながら窺い知ることが出来る【これに関しては、新田義之『リヒャルト・ヴィルヘルム伝』の第12章「世界大戦と青島」を参照】。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された【『俘虜ニ関スル書類』より】。解放後は上海の同済大学教授となり、1922年、エリーザベトの妹マリア(Maria Buri1892-1971)と再婚して、息子カルステン(Carsten-1923)と娘グードルン(Gudrun-1926)をもうけた。ハノーファー・アウリヒ郡のウトヴェルドゥム(Uthwerdum)出身。
12Pape(パーペ),Otto1885-1918):所属部隊不明・後備2等機関兵曹。応召前は山東鉄道機関士だった。1918318日似島で死亡し、広島市比治山の旧陸軍墓地に埋葬され、その墓碑は今日なお遺されている(写真4参照)。ブラウンシュヴァイク(Braunschweig)出身。
13Patitz(パーティツ),Friedrich:国民軍・伍長。応召前は青島の台東鎮警察署警部だった。日独戦争中は、元巡査の兵士や中国人スパイに日本軍の偵察をさせた。その際、情報の信憑性を確保するため、常に二人を1日ないしは2日違いでほぼ同じルートを探らせた。二人が出会って相談し、偽の報告をしないようなルートを考えた。二人の情報がほぼ合致すると、報酬として一人につき1ドルを与えた。時にはプリュショー中尉による空からの偵察も、その際の参考にされた。妻オルガ(Olga)は息子(12歳以下)と大戦終結して俘虜の解放が行われるまで青島に留まった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ザクセン・ムルデ河畔のトレプセン(Trebsen)出身。
14Precht(プレヒト),Karl1893-1985):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。パン職人。息子のヴィリー・プレヒト(Willi Precht)氏によれば、プレヒトはパン職人の家庭に生まれた。ヴュッルツブルクのフランクフルト街にあったパン屋テレーゼで徒弟修業した。その後フランクフルト、ケルン、ヴィースバーデン、ハノーファーで職人として働いた。191310月ククスハーフェンで海軍兵士として訓練を受けて、19141月青島に赴いた。プレヒトが収容所から祖国ドイツに送った手紙が今日いくつか遺されている。プレヒト氏は父親の遺品から、1918年末に似島収容所から姉妹に宛てた手紙を発見したが、その内容は以下である。「僕はその後も変わりありません。今はサッカー、ファウストバル、テニスで時間をつぶしています。以前はさらに畑仕事もしていましたが、それは戦略的理由から再び禁じられています。…僕たちも直に故郷へ戻れるでしょう。というのもたった今平和条約が締結されたことを知ったからです」。大戦終結して帰国後、プレヒトはパン職人から方向転換して、煉瓦職人になった。第二次大戦中はニュルンベルクで煉瓦職として働いたが、1945316日の大空襲で家が完全に破壊された。プレヒトの海軍時代の思い出の品は、時には道具箱として、また時にはジャガイモ入れの箱として、空襲でも焼けずに残った海軍箱だけであるという。日本に対する熱い思いを終生抱き、息子によれば、ヴュルツブルクで日本人旅行客を見かけると、おぼつかない日本語で話しかけたという。もし飛行機恐怖症でなかったならば、必ずや日本にまた一度でかけたであろうとも息子のヴィリー氏は語っている。「日本人は世界で一番清潔好きだ。なにしろ毎日風呂に入る」との言葉を家族はよく耳にしたとも語っている。1972年、ヴュルツブルクでの最後の「チンタオ戦友会」には、友人にして同じく戦友のヴィリッヒ(Willig)と出席した【メッテンライター『極東で俘虜となる』84-86 】。下部フランケン出身。
15Pröfener(プレーフェナー),Johannes:第3海兵大隊第4中隊・後備2等歩兵。応召前は上海工部局交響楽団員だった。1906117日、前記楽団に加入した【「1912年版上海工部局年次報告書」より】。19141215日、上海総領事有吉明から外務大臣加藤高明宛に、上海租界の代表から、指揮者ミリエスとその楽団員であるエンゲル、ガーライス及びプレーフェナーは非戦闘員なので解放せよとの申し入れがあった旨の公信が出されたが、軍籍があることから不許可になった。ハンブルク出身。
16Schwaff(シュヴァフ),August:国民軍・伍長。応召前はシュヴァルツコップ(F.Schwarzkopf & Co.)商会の支配人をしていた。青島時代はホーエンツォレルン街(日本による占領・統治時代は姫路町)319番地に住んでいた。1915319日、他の5名の青島大商人とともに青島から大阪に送還された。送還される前の2ヶ月間ほど、日本の青島軍政署ないしは神尾司令官から、用務整理のために青島残留を許可された【『欧受大日記』大正十一年一月。青島の大商人10名は、当初国民軍へ編入されたが、青島で築き上げたドイツの貿易・商権保持のため、マイアー=ヴァルデック総督の指示で国民軍のリストから削除されたのであった】。なお同年420日、シュヴァフは陸軍省宛に釈放の請願書と損害賠償請求書を提出した。釈放の理由としては、戦役中軍務に服さず、開戦と同時に免除されたこと、国民軍、警察または消防隊等の勤務に従事しなかったことなど5項目を挙げた。損害賠償としては、シュヴァルツコップ商会において、自身が俘虜となることで生じた損害、及び現に生じつつある損害として数十万ドルに達するとしていること。また、自身が冷湿にして風が吹き抜ける木造営舎に起居することで、健康上の障害を来たしたことを日本政府の責任としている。妻リリー(Lili)と子供(12歳以下)の二人は、大戦終結して俘虜の解放が行われるまで上海で暮らした。ハンブルク出身。
17Thilo(ティーロ),Friedrich:第3海兵大隊第6中隊・予備副曹長。応召前は総督府山林局長代理だった。8月末からの豪雨で破壊された道路を、部下とともに中国人労働者を使って修復に努め、日本軍が租借地境界に進軍する前に復旧させた【『青島戰史』76頁】。妻エルナ(Erna)は大戦終結まで上海で暮らした。なお、19141217日付けで、広島衛戍病院から青島ビスマルク街の歯科医ブーヒンガー夫妻に宛てたハガキ(俘虜郵便)が知られている。シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州レンツブルク郡のノルトルフ(Nortorf)出身。
18Walzer(ヴァルツァー)Viktor1872-1956):所属部隊不明・後備伍長。応召前は為替仲介業を営んでいた。ヴァルツァーは長らく歴史の中に埋没していた人物だった。しかし2002年(平成14年)に、インターネットの研究組織「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」を通じて、調査を依頼された東京在住の篠田和絵氏の祖父であることが判明し、やがて篠田和絵氏はドイツに赴いて、祖父の墓前に詣でる事ができたという、実に感動的な出来事があった。『青島戦ドイツ兵俘虜収容所研究』第2号に篠田和絵氏ご自身による「メッテンドルフに眠る祖父ヴィクトール。ヴァルツァーへ」の文章が寄稿されている。ヴァルツァーはダルムシュタットの大手化学薬品取扱商社メルク(Merck)に勤務していた。27歳のとき、ロンドンに渡り、その後青島に赴き為替仲介の仕事に就いた。青島では長崎出身の日本女性ウメさんと家庭を持って娘二人をもうけ、市内中心のフリードリヒ街(日本による占領・統治時代は静岡町、ユーハイムの店があった通り)に住んだ。しかし第一次大戦が勃発して、日独の戦争が始まると、ヴァルツァーとウメさんは離れ離れに引き裂かれた。戦争が終結して似島俘虜収容所から解放されたヴァルツァーは、なぜか長崎に住むウメさんと接触をしないままドイツ本国に帰国した。帰国後は姪夫婦の近くに住んだ。1938年、ヴァルツァーと姪夫婦一家はグラーツに引っ越したが、1945年グラーツから追放されると、ヴァルツァーは郷里のメッテンドルフ(Mettendorf)に戻った。1956年頃、メッテンドルフ近郊の村ヴァックスヴァイラー(Waxweiler)で没したが、メッテンドルフのヴァルツァー家の墓地に埋葬された。ヴァルツァーの遺品中には、大阪収容所時代のアルバムがあり、それには本人の写真二枚があり、篠田和絵さんの手元にも全く同じ写真があるとのことである。大阪収容所から差し出された手紙、ヴァルツァーが似島収容所に収容されていることを伝える手紙が遺品として遺されている。習志野市教育委員会の星昌幸氏及びドイツの俘虜研究者ハンス=ヨアヒム・シュミット氏の調査と熱意があった。特にシュミット氏の探索によって上記ドイツの縁者が判明した。大戦終結して解放後、ヴァルツァーは何故か単身ドイツに帰国し、二人の子供をもうけたウメとはその後関わりを持たなくなったと思われる。しかしドイツに戻ったヴァルツァーは結婚することなく、子供をもうけることもなかった。参照:星昌幸「ワルチェルさんのこと」(所載:『青島戦ドイツ兵俘虜収容所研究』第1号、青島戦ドイツ兵俘虜収容所研究会)】。ラインラントのメッテンドルフ(Mettendoruf)出身。
19Wassermann(ヴァッサーマン),Georg:国民軍・副曹長。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。シュミット氏のホームページの「ゲストブック」には、2005320日付けでPákozdi氏が以下の書き込みをしている。「私の義母イルゼ・コッホ(Ilse Kosch;旧姓Wassermann)は、191524日に青島のファーバー(Faber)病院で出生。義母の父親は青島のドイツ館のオーナーだったのでしょうか?ゲオルク・ヴァッサーマン(Georg Wassermann)は1880年生れですか?情報お願いします」。これに対しては523日付けで、マトゥツァトゥ(Matzat)教授が「ゲストブック」に大要以下の文章を寄せている。「Pákozdi氏に次の情報をお伝えします。1910年から1913年の青島住所録に名前が記載されています。1911年では、ヴァッサーマンはティルピッツ街のプショル醸造所レストランの業務主任、1912年にそのレストランのオーナーになり、ヘレーネ(Helene)と結婚、娘エディト(Edith)が1913年に生れたものと思われます。1913年に彼はレストランを売却して、フリードリヒ街の「チンタオ・クラブ」の支配人になりました。この建物は現存します。戦争中、妻と二人の娘は1920年初頭まで青島に留まりました」。ベルリン出身。
20Wolschke(ヴォルシュケ),Friedrich Hermann1893-1963):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。応召前は屠畜職マイスターだった。1891731日、兄、弟、妹四人の7人兄弟の次男として生れた。似島時代、屠畜職人だったケルン(Kern)、シュトル(Stoll)の三人で、当時の広島市広瀬町上水入町のハム製造会社酒井商会でハム製造の技術指導をした。三人の写真が『広島中国新聞』(大正81225日付け)に掲載されている。広島県物産陳列館での俘虜作品展示即売会にバウムクーヘンを出品するようユーハイムを励まし、自身はソーセージを出品した(図版5参照)。大戦終結後は、銀座に新規開店した明治屋経営の「カフェー・ユーロップ」のソーセージ製造主任になった。後に軽井沢に自分の店「ヘルマン」を創業した。1932年、アメリカからベーブルース等を含むプロ野球チームが来日した折り、甲子園球場で日本初のホットドッグを販売したといわれる。第二次大戦中は同盟国の人間でありながら営業活動を停止され、長野県野尻湖畔でいわば幽閉生活を送った。今日、息子のヘルマン・ヴォルシュケ氏が神奈川県厚木で「ヘルマン」を営業している。東京・狛江の泉龍寺に墓があり、墓碑には「遥かなる祖国ドイツを誇り、第二の故郷日本を愛したヘルマン・ヴォルシュケここに眠る」と記されている。ブランデンブルクのラウノ(Rauno)出身。
 
参考文献
1) 『獨逸及墺洪国 俘虜名簿』、日本帝国俘虜情報局、大正66月改訂(外務省外交資料館所蔵)。
2) Führer durch die Ausstellung des kriegsgefangenenlagers Ninoshima》(似島獨逸俘虜技術工藝品展覧會目録),Frühjahr 1919.
3) 『俘虜収容所業務報告綴』大正六年 陸軍省 大正三年十一月十四日起「大阪俘虜収容所記事」(防衛研究所図書館所蔵)。
4) 『陸軍省 歐受大日記』(防衛研究所図書館所蔵)
5) Heimats-Adressen der Kriegsgefangenen des Lagers Ninoshima》、【ハンス=ヨアヒム・シュミット氏提供;19198月から1919年末までに作成されたと思われる】。
6) 『青島戰史』―獨逸海軍本部編纂1914年乃至1918年海戰史、海軍省教育局、東京・双文社印刷、昭和101225日。
7) 頴田島一二郎『カール・ユーハイム物語 ―菓子は神さま』、新泉社、1973年。
8) 『ドイツ俘虜の郵便』―日本にあった収容所の生活、吉田景保訳注、日本風景社、昭和57520日。
9) 「新発掘・知られざる70年前の俘虜収容所」、『毎日グラフ』19841111日。
10) Du verstehst unsere Herzen gut-Fritz Rumpf(1888-1949)im Spannungsfeld der deutsch-japanischen Kulturbeziehungen.Japanisch-Deutsches Zentrum Berlin,1989.
11) 『バウムクーヘンに咲く花 ―ユーハイム70年の発展と軌跡』、株式会社ユーハイム、平成3101日。
12) Mettenleiter,Andreas:Gefangen in Fernost.Sechs Jahre im Leben des Würzburger Kaufmann Wilhelm Köberlein,Echter Verlag,2001
13) 宮崎佳都夫(執筆者)『似島の口伝と史実(1)島の成り立ちと歩み』、似島連合町内会・郷土史編纂委員会、平成1012月。
14) ハンス=ヨアヒム・シュミット(Hans-Joachim Schmidt)氏のホームページ(www.tsingtau.info
15) 「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」、(http://homepage3.nifty.com/akagaki/)平成1549日発足。
16) 『ふるさと似島』(平和学習参考資料)、ふるさと似島編集委員会、20037月。
17) 瀬戸武彦「青島(チンタオ)をめぐるドイツと日本(5)−独軍俘虜概要(2)」、『高知大学学術研究報告』第52巻、人文科学編、平成151225日。
18) 『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第2号、「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究会、20041015日。
19) 『我ら皆兄弟とならん』―日本におけるドイツ人捕虜1914-1920、ドイツ東洋文化研究協会(OAG)、20051026日。
20) 『ドイツからの贈りもの〜国境を越えた奇跡の物語』、新広島テレビ、平成18122日放映。
21) 大川四郎編訳『欧米人捕虜と赤十字活動 パラヴィチーニ博士の復権』、論創社、2006110日。
22) 田村一郎「「大阪俘虜収容所」記念碑落成」、『鳴門市ドイツ館館報』第15号、平成18325日。
23) 榎本泰子『上海オーケストラ物語 西洋人音楽家たちの夢』、春秋社、2006720日。
 
 
 
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