青島(チンタオ)への船旅と旧山東鉄道の旅
                    
瀬戸武彦(高知大学人文学部教授・ドイツ文学)
 
 平成143月末から4月初めにかけて、78日の日程で青島等への旅をした。ある旅行会社によるこの旅の企画を知ったとき即座に申し込んだのは、青島には船で行く旅だったからである。第一次大戦が勃発して日独開戦が避けられない状況になると、青島守備のためにアジア各地域から続々と志願兵が青島に向かった。多くは陸路で青島に向かったが、日本からの志願兵は当然ながら船で行くしかなかった。やがて日本軍も大艦隊を編成してドイツの青島を要とする膠州租借地の攻撃に向かった。日独の将兵達が船のデッキで眺めたのはどんな光景だったのだろうか。僅かなりとも追体験できるかもしれない。それが旅の目的だった。
 ドイツが膠州湾を占拠し、やがて一帯を租借地とするまでの青島は鄙びた漁村で、周辺の山々もろくに木が生えていない禿山ばかりだった。林学を生んだドイツの学問の粋は、10年足らずで青島並びにその周辺を緑美しい町に変えた。お雇い外国人医師のベルツは、船が青島に近づくと周辺の風景とは一変して、遠くから見える青島が目を見張るばかりに美しいことを日記の中で記している。そんな青島を想像して下関から青島行の船に乗り込んだ。
 玄界灘の荒海という言葉は時に耳にしていたが、まさにその通りだった。海が荒れ始めたのかと思ったが、玄界灘を渡るときはいつもこうだ、と乗船経験豊かな人が語った。深夜に壱岐と対馬の間を船は航行した。翌朝、一面の大海原の中に幽かに浮かぶ島が南の方角に見えた。済州島だった。その後は黄海を横切り、まる一日半見えるのは海ばかりだった。このルートが下関(往時は門司だったが)と青島を結ぶ最短の航路だそうだ。ドイツの志願・応召兵も日本軍将兵も、この果てしない海ばかりの光景を眺めたのであろう。
 二日目の朝、靄の中に青島が浮かびあがってきた。緑美しい青島は残念ながら340年前までのことだった。靄と思ったのは実は黄砂にけむっていたのだ。昨年は例年になく黄砂の量が多かった。やがて膠州湾内のかつての大港に近づいて目の前にした青島は、高層ビルが林立する、人口350万余の巨大近代都市の相貌だった。
 この旅行は青島には一泊もしない旅だった。7泊のうち4泊は船中泊で、残り3泊は曲阜、泰安そして済南であった。青島到着後2時間ほど市内観光をしてから、旧山東鉄道(現膠済鉄道)の列車に乗り込んで、山東省の省都済南に向かった。青島と省都済南を結ぶ鉄道は、義和団事件が吹き荒れる最中にドイツによって建設されたものである。筆者はかつてその建設にまつわる諸々のことを論文で紹介したことがある。青島駅舎も一変したが、僅かに一部が残されていた。列車が走りだして四方、李村付近を通過するときは、感慨深いものがあった。日独戦争の折の激戦地だったからである。かつての炭鉱の町坊子、維縣の駅は、今は周辺部との統合名になっているが、それを窺がわせる駅名には曰く言い難い思いに駆られた。
 田園地帯を走る車中から、ときおり線路脇に土饅頭が見えた。第二次大戦での敗戦後、済南等から逃げて青島へ向かった邦人の中には、その思い果たせずに途中で亡くなった人も少なからずあったと聞く。もしやそうした邦人の墓ではないかとの思いが過ぎると、黙祷せずにやりすごすことは出来なかった。
孔子の生地である曲阜は、中国の都市の中でも一風趣が異なっていた。この古都曲阜もドイツが膠州租借地を獲得するに当たって、ある種の関わりをもった町である。1897年中頃から、ドイツの宣教師アンツァー司教は、曲阜からさほど遠くない町兌州への入城に執拗なほどこだわったが、それはやがて曲阜入京を果たすためでもあったと言われる。中国人にとっては聖地とも言える曲阜へキリスト教宣教師が立ち入ることは、当時の儒者、官吏には耐え難いものだったと思われる。アンツァー司教は強引に兌州入城を強行したが、そのことはほどなく彼の会堂のあった巨野縣曹州府で、ドイツ人宣教師二名の殺害という事件に繋がったのである。その事件の二週間後の18971114日、ディーデリヒス中将率いるドイツ東洋艦隊による膠州湾占拠が行われた。
泰安はこの旅行では唯一、租借時代のドイツとは関わりがない町だった。単純に名勝泰山の光景を楽しみ、広大な中国の大地に見とれ、そして土地の料理にじっくり舌鼓を打った。
済南は山東省の省都で、かつてはここにもドイツ人が多く居住し、ドイツ領事館が設けられていた。香港、漢口、広東、南京、上海等在住の主としてドイツ人商人達は、済南までやってくるとドイツの息吹を感じ、山東鉄道の列車に乗車すれば、それこそ車内はもうドイツそのものであった。大戦が勃発してやがて8月上旬、それらの諸都市から応召してきた志願兵達も、済南に到着すればドイツの勢力圏内に入ってほっとしたらしいことは、俘虜の遺した日記等から読み取れる。ドイツに代わって日本による占領・統治、そして第二次大戦終結までの時代、省都済南には数多くの日本人が住み、日本領事館、日本人学校等の施設があった。敗戦後、悲惨な運命に巻き込まれた邦人が少なからずいたことは先に触れたとおりである。
青島に戻ってから乗船するまでの時間、再びバスで青島市内観光をした。今日の青島にドイツによる膠州湾占拠以前の建物としては、明の時代に建造された道教の寺院天后宮が残るのみである。清朝時代の官衙であるヤーメン(衙門)は、第二次大戦後にやがて撤去された。その脇にはかつて衙門砲台があり、日独戦争の折には日本軍の艦船に向けて砲弾が降り注いだのであった。青島のかつてのドイツ人居住区には、ドイツ時代の建物が数多く残されている。一瞬ドイツの町かと、錯覚にとらわれるほどだった。総督府やプリンツ・ハインリヒ・ホテル、天主堂等の建造物は今なお堂々していて、威風を払うかのようである。
乗船前にとあるホテルで昼食を取った。食卓に出てきた大きな魚のホイル焼きを見たとき、これこそ「パオ」(鮑)だと感激した。魚は鱸(すずき)の一種であった。ドイツによる建設以前の青島は鄙びた漁村であった。そこでは魚を揚げて、場合によっては漬け汁に浸したりしたものを紙に包んだもの、すなわち「鮑」が当時の青島周辺の中国人とっては最大のご馳走であった。膠州湾内の漁港から見える、やや大きな島はその名前から「大鮑島」(ターパオタオ)と名づけられた。やがてこの島の名は、対岸の一画の地名ともなり、ドイツ時代は青島で最も賑わった中国人街区であった。板東収容所内の一画に俘虜達が設けた商業地区は、「Tapatau」(タパタオ)あるいは「Tapautau」(ターパオタオ)と呼ばれたが、その語源はこの魚料理に発している、と思うと実に感慨深かった。とても美味しかった。
青島の町はごく一部しか眺めることができなかった旅であったが、往復の船旅と旧山東鉄道の列車の旅はそれを補って余りあるものだった。今日、船による下関・青島間の旅程は二日弱であるが、往時はたっぷり二日半を要した。九州に設けられた収容所以外に収容されることになった俘虜達は、門司からさらに広島の呉、松山の高浜、多度津、神戸そして大阪港へと向かって瀬戸内海を渡って行った。青島近傍の沙子口湾から三日がかりだった言われる。
 
 
 
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