書評
 
松尾展成著
『日本=ザクセン文化交流史研究』
 
                                瀬戸武彦
 
この度上梓された『日本=ザクセン文化交流史研究』は、著者松尾展成氏の45年余に及ぶザクセン経済史研究の一環から産み出されたものと言える。ザクセンに関しては、細部のどんなことも見逃さないその姿勢が、この度の著書にも如実に現れている。書評者の研究姿勢は甚だ大雑把で、著者からは折に触れて論文等における誤謬、錯覚、思い込みを指摘されてきた。このことを思うと、書評を担うには不適任であると自覚しているが、第2部「日本とザクセンの人的交流」の第3章から第5章については、書評者も多少通じているところがあるので、敢えてこの任を受けた次第である。
先ず章別に論評し、最後に総評を述べたいと思う。
 
 第3章の「来日したザクセン関係者」は、1998年に本学会の『岡山大学経済学会雑誌』第30巻第1号に掲載された同名論文(資料)に加筆したもので、一種の人名辞典である。先の論文では50名の人物が採り上げられたが、この度の『日本=ザクセン文化交流史研究』第3章では、59名と9名増加している。著者が記しているように、第4章で採り上げるオットー・レーマン、及び第5章で採り上げるクラウスニッツァーも本来ならこの章で扱う人物で、その場合には61名のザクセン関係者となるものであった。しかしこの二名については厖大にして詳細を極めたことから、独立した章が設けられている。
前述の論文への大きな加筆部分は、(3)エンゲル、(7)ゲプフェルト及び(13)シュテヒャーの三ヶ所と言える。この三名はいずれも第一次大戦時の日独戦争による俘虜(当時は「捕虜」の語の代わりにこの「俘虜」の語が使用された)である。三名の他にも、俘虜となった人物(43)ベルリーナーと(54)ユーバーシャールの二名が採り上げられている。しかし前者については、近年他の研究者によってかなりのことが調査されたことから、参考文献を追加した以外は僅かな加筆に留まり、また後者に関しては、収容所からの解放後、終生日本で暮らしたこともあって、同様に新たな文献の紹介程度に留まっているのは、何ら不思議ではない。
さてエンゲル、ゲプフェルト及びシュテヒャーの三人の内、前二者は新規に取り上げられた人物で、シュテヒャーは大幅に加筆された事項である。この三名の記述において、エンゲルには28項目の注、ゲプフェルトには16項目の注、シュテヒャーには24項目の注が付けられていて、他の人物の記述との相違は際立っている。そこで第3章については、特にこの三人の事項について論評し、最後にその他の人物について若干の言及を試みる。
 
3)パウル・エンゲル
エンゲルは10数年前から、主として板東俘虜収容所における音楽活動によって、研究者の眼が向けられるようになった人物である。第一次大戦時、日本各地にドイツ兵を収容する俘虜収容所が設けられたことは、今日少しずつ知られるようになった。しかし、エンゲルを始とするドイツ兵俘虜の活動・経歴等について、これまで調査・研究の眼が充分に注がれてきたとは言いがたい面があった。エンゲルについて言えば、その出生地すらはっきりしなかったのである。そうした中で著者は、歴史学者としての研究手法を遺憾なく発揮して、飽くことなく調査の手を伸ばした。ドイツの役所の戸籍部から、エンゲルの出生を記した公文書のコピーを入手したのはその顕著な一例である。また、東京の防衛研究所図書館は、俘虜収容所や俘虜に関する基礎資料があることから、多くの研究者が足を運んでいたにも関わらず、見逃してきた一次資料を発掘した事も、強調されるべきことであろう。
著者のエンゲル探索への情熱と執念は、本書中にもその名が触れられているドイツ人研究者にも伝わって、やがてエンゲル自身の手になる「自伝」の発掘に繋がった。それが更に上述の出生記録の入手に至ったと言える。エンゲルについては、日本の収容所から解放されて蘭領印度(今日のインドネシア)に渡ったが、1925年以降の消息は杳として不明である。著者を含めて数名の研究者が、今日なお調査していることを記しておきたい。
 
7)ゲプフェルト
アルトゥーア・ゲプフェルトについては先行するいくつかの文献によって、第一次大戦前から東京麻布に住み、妻子が収容所に面会に訪れたことなど、いくつかの事がらが知られる、研究者の関心を呼ぶ人物であった。しかしながらその生涯については、一切不明のままに放置されていた。先行文献の中にはこのゲプフェルトを、幾分似通った名前をもつ同じく俘虜だった下士官ゴッペルトと混同しているものもある。しかし著者はドイツの戸籍部等の一次資料によって、その混同を完全に排除した。本項目では直接触れられてはいないが、『岡山大学経済学会雑誌』第36巻第1号に掲載された著者の「4人の板東収容所捕虜」は、本項目に繋がった論文である。その中で著者は、アルトゥーア・ゲプフェルトの人物確定に至るまで、同姓同名の人物にも突き当たるが、当該人物の確定を見事に成し遂げている。またその調査・研究過程で、従来先行する諸文献で参考・引用されてきたある書物を、史実研究の上では全く価値の無いものと断定していることは、著者の研究姿勢を明瞭に物語るものである。書評者を始めとして、俘虜研究に携わる多くの者へ警鐘を鳴らしているとも言えよう。
 
13)シュテヒャー
日独戦争での俘虜の中でも異色の存在と言えるこの人物について、従来その諸関連はほとんど調査されてこなかった。この面でも著者は輝かしいまでの研究成果を提示した。本書第1部第2章「鴎外が交流したドイツ人」の(49)ステッヘルで触れてもいるが、ザクセン軍医監を務めたその父親に関して、2005年に著者や書評者を含むインターネット研究組織において公表した研究「日本とザクセンを結んだシュテヒャー父子」は瞠目に値する。シュテヒャーの父親と森鴎外との関わりを示したものであるが、これは著者の調査・研究の広がりを余す所なく見せている。また、シュテヒャーと親密な関わりをもった猪狩亮介、山田耕三の二人の軍人についての追跡調査も、著者によって始めて本格的に行われたと言える。しかしそれでもなお、シュテヒャーの日本における活動、特に俘虜となる前の活動には不明の部分があるので、今後の著者の更なる調査・研究が切望される。
 
ここで今一度第3章全体に立ち戻ったとき、ある思いが生じることは否めない。つまり、記述量に余りの格差があるのでは、との素朴な感想を抱く読者がいるのではないだろうか。今日の東京大学医学部の基礎を築いた医師エルヴィン・ベルツと、「フォッサマグナ」の命名者にして、かつ「ナウマン象」にその名を留め、また若き日の鴎外森林太郎との論争で知られる地質学者エドムント・ナウマンとに関する記述が、これまで触れてきた三者の記述とに、余りの量的な違いが見られるからである。ベルツに関してはその日記が昔から知られ、多数の関連文献があるので、記述は他の文献に譲っても十分であろう。しかしナウマンに関しては、もう少し調査がなされてもよかったのではないだろうか。糸魚川市のフォッサマグナミュージアムに言及され、最近の文献も挙げられているが、四国高知におけるナウマンの活動が全く見過ごされていると言える。特に高知を二度訪れ、地元の化石収集家と親密な関わりもち、記念にドイツ語の詩を贈呈してもいる。その詩は地殻変動を読み込んだ、いかにもナウマンらしい詩で、今日は表装されて高知市近郊の佐川地質館に飾られている。この珍しい事実についての調査までに至らなかったことは、書評者にとっては残念な気がする。
なお、人物名は五十音順に配列され、章の末尾にはアルファベット順の人名索引が付いているが、本論の箇所でも原語綴りがあれば、より親切であったであろう。
 
4章の「久留米「収容所楽団」指揮者オットー・レーマンの生涯と音楽活動」は、第3章も組み入れることの出来る人物であるが、その膨大にして詳細な調査から、独立した一章が設けられている。レーマンは第一次大戦時に日本の収容所に収容された俘虜だった。その意味で、第3章のエンゲル等と共通する人物である。レーマンの久留米収容所内での音楽活動については、先行文献において多少記されている。しかし、その生涯となると全く触れられずにいたのがこれまでの状況であった。本章第3節における「オットー・レーマンの生涯」には、遺族を探し当てて、遺族から提供を受けた資料、またドイツの文書館や郡役所等からの資料等が活用されている。特に「履歴書」が紹介されていることで、その人間像が浮かび上がっていることがこの章の特色である。この「履歴書」は、出生から1934年に至るまでを本人が自伝風に綴ったものであることから、謂わば「生身」のレーマンが眼前にいる思いがする。圧巻は第5節の「久留米収容所楽団収支決算書」であろう。この第5節は、年月日を含む数字的な記載によって構成されていて、この節だけで注は123にも及んでいる。さながら家庭の家計簿風で、一見無味乾燥な感じを抱かせる。しかし、具体的な数字が挙がっていることで、返って人物像やその活動が鮮明に浮かび上がっているとの思いを抱くのは、書評者一人ではないであろう。なお、この第4章全体の注の合計は実に317に達している。
 
5章の「板東「ドイツ牧舎」指導者フランツ・クラウスニッツァーの生涯」も、第3章に組み入れることの出来る人物であるが、その膨大にして詳細な調査から独立した一章をなしている。クラウスニッツァーも第一次大戦時に日本の収容所に収容された俘虜であった。クラウスニッツァーにおける記述においても、ドイツの文書館や郡役所、戸籍部に調査依頼して、教会の堅信礼証書を入手することを始として、その遺族を探し当てて、遺族から資料等の提供を受けて、クラウスニッツァーの生涯の記述に活かしている。それによってクラウスニッツァーの記述は、オットー・レーマン同様に詳細・緻密を極めている。こうした研究・調査の方法は著者の独擅場と言えるもので、余人の追随を許さぬところである。板東収容所時代のクラウスニッツァーの活動、特に「ドイツ牧舎」での活動には、行動を共にした日本人松本精一の記録を巧みに用いて、クラウスニッツァーを髣髴させるが如くにありありと描写している。著者にしては珍しく物語風になっているが、著者の従来からの姿勢と矛盾するものではない。恣意的なものが一切混じっていないからである。
 
著者がドイツ兵俘虜に眼を向けるようになった1998年頃から、さながら符牒が合うかのようにドイツ兵俘虜の研究が活発化した。このことは単なる偶然ではないであろう。ドイツ兵俘虜研究の情報にまだ接していない読者には、本稿で採り上げた五人の人物に関して、著者の記述が持つ意味を俄かには理解し難いかもしれない。しかし、「日本におけるドイツ2005/2006」、いわゆる「ドイツ年」における日独双方での大きなテーマの一つ、つまり「日本におけるドイツ人俘虜」の研究においては、実に大きな意味をもっている。歴史上、最も多くのドイツ人が日本で生活していたのは第一次大戦時であった。5000人以上のドイツ人が暮らしていたとされているが、実にその八割が収容所の中にいたドイツ兵俘虜だったのである。
長く看過されてきたドイツ兵俘虜の問題は、今後光が当てられるであろう。それは著者と書評者が共有して抱いている思いであるが、本書がそのきっかけの一つになれば、と願って筆を措きたい。
                          (大学教育出版 2005年)
 
 
 
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