名古屋俘虜収容所 覚書 V

  (名古屋日独協会)

 

目次

1.はじめに

2.俘虜達の印象記.

1)Dr. Krebs氏の論文にみる「作られたメルヘン」

2)アウグスト・クルーガー氏のレポート

3)フリードリヒ・F・フォン・シュトック氏の指摘

3.ハーグ条約の具体化に問題

1)収容所間の温度差、管理運営の格差

2)俘虜側の規律違反

3)全般的には「友好親善」の評価―Krebs氏―

4.遺族が記憶している話

1)ケッシンガー中佐のご遺族の話

2)名古屋にいた俘虜のご遺族の話

5.名古屋俘虜収容所所長の印象記や講演記録

1)                           林田一郎陸軍大佐の感想記

2)中島銑之助陸軍大佐の感想記

6.おわりに

7.ご指導とご協力に感謝

 

1.はじめに

本誌の第1号と第2号で名古屋俘虜収容所について拙稿を発表しました。俘虜の収容所生活や市民との友好的な交流や俘虜の就労、技術指導などについて、ある程度の描写ができたつもりでいます。この時期のドイツ兵俘虜との交流は、大方の記録でみると友好親善の側面の描写が印象的です。また私が取り上げた産業や企業への貢献の話(本誌「覚書」のTとU)もプラスというか明るい光の面からの記述になっています。それはそれで十分に意義のあることだとは考えています。しかし歴史はプラスの側面もあれば、マイナスというか暗い影の側面もあります。事実の経過には明るい面と暗い面があります。さらにいえば、その両面の下を流れる歴史の本流を注視しなくてはなりません。具体的には第一次世界大戦とは何であったのか。日本の青島占領の歴史的意義とは何であったのか。青島戦に勝利した年の翌年、大正4年の「対中国21か条」をどのように歴史的に認識するか。一方ヨーロッパの一国であるドイツが、遠いアジアの一角に進出した意味とは何であったのか。実はその辺の歴史的認識も同時に用意されなくてはならないと思います。

さてその重要で大きな課題は今後の課題として、今回は日独の明るい友好親善の側面というよりは、ドイツ人側からみた日本や日本軍の印象、俘虜からみた印象を扱ってみようと思います。またドイツ側の記述はプラスとマイナスの両方を扱っていることも予め申し上げておきます。今入手できる文書記録や資料は未だ十分ではなく、その全貌を把握することは容易ではありません。「聞き取り調査」も年月を経て極めて困難です。一部ドイツ本国の記録保存所にある資料を入手できましたが、サーチャーを介しての検索に手間取ることや入手した資料が期待はずれの結果であったりして難航しました。何分当時の印刷技術や環境を考えてもわかるように、再生コピーが判読困難なものがあったり、また昔のドイツ文字を手書した記述であるため判読に時間を要する資料であったりして、その全貌を解明するまでには至りません。しかもこの俘虜生活の評価や印象の話になると、名古屋に特化した資料は殆どありませんでした。ですからこの点では「名古屋俘虜収容所 覚書 V」というタイトルですが、前号の「覚書」T、Uとの関連でつけたタイトルです。しかし内容は名古屋に限った話ではなく当時の一般的な話に話がおよぶことになります。

以上のようにこの号では、俘虜達が体験した印象と収容所生活での事例等と名古屋収容所の前期と後期の両所長の印象記録を扱います。

 

2.俘虜達の印象記

1)Krebs氏の論文にみる「作られたメルヘン」

Dr. Gerhard Krebsは、ご存知の方も多いかと思いますが、ポツダムの軍事史研究所 専門研究員で、これまでハンブルク、フライブルク、ボンや東京などに在住し、ドイツや日本の歴史などの研究者です。日本にも知己の方はおられるようです。氏が青島の俘虜の収容所生活を記述した論文には、

Der Chor der Gefanngenen : Die Verteidiger von Tsingtau in japanischen Lagern. In : Hans-Martin Hinz und Christoph Lind(Hrsg.): Tsingtau. Ein Kapitael deytscher Kolonialgeschichte in China 1897-1914. Berlin, Deutsches Historisches Museum 1998,S.196-202

これと内容が同様のもので、

Die etwas andere Kriegsgefangenschaft. Die Kämpfer von Tsingtau in japanischen Lagern 1914-1920. In: Rüdiger Overmans (Hrsg.): In der Hand des Feindes. Kriegsgefangenschaft von der Antike bis zum Zweiten Weltkrieg. Köln, Weimar, Wien: Böhlau Verlag 1999, S. 323-337.

があります。

後者のほうが詳しい記述になっていますが、さらにこれの改訂版がありあます。それは、

Nachgegedruckt in: Berliner Protokolle. Philatelie und Postgeschichte der deutschen Kolonien und Auslandspostaemter, Nr. 65, Oktober 2003, S.95-107.

Krebs氏は、青島戦のドイツ兵俘虜に関する豊富な文献を素材にして、ドイツからみた俘虜収容所の状況をまとめています。名古屋に限らず当時の収容所全般を扱っています。そこには「概して友好的な関係があった」といいながら、その反面収容所の実態は友好の側面ばかりではなく、ドイツ兵俘虜からみればいくつかのマイナスの側面があったことを指摘しています。俘虜生活ならばそれは当然だといって看過することなく、どのようなマイナスの印象があったかを解明することこそ歴史の科学的分析であり、また社会科学各分野の研究に貢献するものと確信しています。日本における俘虜生活は一般的には友好親善のプラスのトーンで語られています。その一方Krebs氏によれば、帰国したドイツ俘虜の間では「友好親善といわれていることは誤った作り話」「友好の神話」であるといわれています。それは一体どういうものか。私はその点の指摘に注目して今回のレポートの出発点としました。

最初にKrebs氏が指摘するドイツ側でいうマイナスの評価をあげておきます。それは大きく分けて3つになると思います。1.住環境の不備、食事の不満など日常の生活環境全般。2.殴打や私信の過度の検閲、無断押収、医療行為の怠慢など人権侵害。3.人種差別感を理由とする報復の精神文化 をあげています。その内容をさらに詳しく次に示すと、

いわゆる「マイナスのイメージ」とは

@住環境の不備や衛生状態の不良、食事の不満など生活環境全般

収容所の収容人数は超過しどこも満杯であった。

建築はヨーロッパ風ではなくて天井は低く、隙間が多く暖房は貧弱でベットの数は不足していた。

虱や鼠に悩まされた。食事は悲鳴を上げる程不味い料理だった。収容所は別名「猿の檻」といわれた。

A殴打や私信の過度の検閲、無断押収、医療行為の怠慢など人権侵害

警備兵や将校から俘虜の兵士や将校さえも殴打された。些細なことにも過度の懲戒処分が課せられ、いわゆる「猿の檻」の中では特別の恐怖感に襲われた。

郵便の発信や受け取りは検閲を理由に滞留期間が長く、語学能力の問題もあって日独語以外のハンガリー語などは最初から破棄された。郵送されてきた荷物は日本側に横領され届かないこともあった。

骨折患者が1週間も放置されていたように、医療行為には誠意がなかった。

B人種差別感を理由とする報復の精神文化

過去に白人は有色人種に対して「人種差別」して冷酷無残な扱いをしてきた。今白色人種であるドイツ兵俘虜が有色人種の住む日本に来た。そこで日本人はこれまでの差別被害に返礼する絶好のチャンスが来たと思った。そのように俘虜達は思っていたという。

この人種差別感であるが、大正初期の日本人には実際どの程度欧米に対するコンプレックスがあったのか。逆にそれがアジア諸民族に対しては優越意識になったのか。欧米の列強の国力、技術や芸術文化に対する畏敬や憧憬の気持が、コンプレックスになったのか。それとも畏敬や憧憬が彼等にそう受け取られたのか。

Krebs論文では、日本人はこれまで<白人>から人種差別を強いられてきたので、ドイツ兵俘虜の来日はそれに報復する絶好の好機だとみた。その結果俘虜達は収容所生活の中で散々「いじめ」られたのだという。収容所を「猿の檻」“Affenkasten”

だとか また「有刺鉄線病」”Stacheldrahtkrankheit”などという特別の比喩的な表現があります。

この辺は関心をひく内容だと思うので、次にKrebs氏がこの部分に関連して記述した原文訳を紹介しておきます。

「どの収容所も満員で人が溢れていた。トイレや浴場はどこも不足しており、建物はヨーロッパ風ではない。出入り口も天井も背の低いつくりでヨーロッパ人の体格にあっていなかった。建築は日本風の建築で隙間風が入り、暖房設備は貧弱だった。煙突はなく小さな木炭を使い尽くすのがせいぜいだった。ベットの数も足らなかった。さらに虱や鼠に悩まされた。食事は悲鳴をあげる程まずくひどいものだった。

戦後作られた神話、日本における“快適な俘虜生活”は、必ずしも本当のことではないし、中にはこれは「帰国後生まれたメルヘン」だと、強く異議を申し出ている人達もいる。俘虜の多くは、日本人達はこれまで「白人」からうけた差別への報復を我慢できないという印象をもっていた。日本兵から殴打や足蹴りをされたが、その中には将校さえも暴行をうけた。これについて日本の軍隊では兵隊達を棍棒で殴るのは日常茶飯事だったことを思い出す。厳しい懲戒処分は、何回も些細なことに対しても行われた。夏の暑い時期でも冬の寒い時期でも、拘留はいわゆる「猿の檻」“Affenkasten”の中に押し込められ、本当に非人間的な扱いだった。日本語やドイツ語がお互いに通じあわない場面では、そのためにいくつかの誤解やイザコザが起きた。

俘虜への手紙も度々故意に処分され荷物は横取りされた。こうなると本人と家族とを結びつける橋は壊されたことになり、それは彼等には実に残酷な仕打ちとなった。投函する郵便物と受け取る郵便物の全ては検閲された。そしてしばしば発信や受け取る時間が長引いたのは、検閲官のドイツ語の語学力がよくないのと筆記体の文字を読む力のなさが原因だった。許可された郵便物の数はごく限られた数しかなかった。郵便選別は懲戒処分の手口としても使われたが、郵便そのものが止められたこともあった。ドイツ語や日本語以外の言語、例えばハンガリー語の郵便物などは、発送もされなかったし受け取りもできなかった。

医療行為は時に不十分だった。ある時は骨折患者は1週間も何もされなかったことがあった。1918年日本も世界的に流行した流感から免れることはなかった。1914年から1920年の間に約80人以上の俘虜が流感で死亡している。肉体的な病気と並んで精神障害で入院した患者があったが、それは医療行為をされなかったことが原因であったり、あるいは閉所恐怖症のためでもあった。簡単にいえば『有刺鉄線病』と表現できる。」

かなり暗い表現で俘虜生活を描写しております。

注:Dr. Krebs氏が「帰国後つくられたメルヘン」のことを紹介した参考文献は、

Waldemar Vollerthun (konteradmiral a.D.): Der Kampf um Tsingtau. Eine Episode aus dem Weltkrieg 1914/18 nach Tagebuchblaetern, Leipzig 1920, S. ]T .

Adalbert Freiherr von Kuhn : Kriegsgefangen in Japan. Erstes und Heiters aus meiner “ Furionenzeit “. In Feindeshand, S. 76-82.

J. Jaspersen : DO MAU. Arbeit und Abenteuer eines deutschen Chinakaufmanns, Leipzig 1936, S.225-232

注: Dr. Krebs氏が「人種差別の報復」のことを紹介した参考文献は、

Adalbert Freiherr von Kuhn : Kriegsgefangen in Japan. Erstes und Heiters aus meiner “ Furionenzeit “. In Feindeshand, S. 76 f.

次第に改善されていったーKrebs氏の証言―

「しかし概していえばまずまず耐えうる生活環境で、次第に改善もされた。時々近くの町へ外出したり、グループ旅行さえあった。次第に収容所の多くでは、自分達の運命を独自に切り開いていく見通しができてきた。収容所の宿舎や設備を彼等は自分達の技能を生かして運営し管理することもあった。野菜園、家畜の飼育や精肉などで食事の料理もヨーロッパ風の味覚に合う料理に改善していった。日本人の経営による酒保や売店を俘虜達は自由に利用することができた。俘虜達は本国からの仕送り以外に、日本兵と同額の給料を支給されていた。また時折出かける近隣の職場での報酬や自前の製品販売で彼等の収入を潤していた。」

時間の経過で収容所生活は段々と改善されていったことがわかります。

2)アウグスト・クルーガー氏(August Krueger)のレポート

このレポートのタイトルは、「日本のドイツ俘虜収容所の報告」(Bericht ueber die Lager der deutschen Kriegsgefangenen in Japan)で、原文は俘虜研究家ディルク・ファン・デア・ラーン氏から受け取ったものです。クルーガー氏は、海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備一等砲兵でエルザスのアンドラウ出身。収容所は静岡から習志野へ移転しています。クルーガー氏は文中で「われわれの収容所」と書き当時俘虜であったことを述べ、文末で「この報告は特に習志野のことを扱っているが、しかし福岡、静岡、大分や久留米のことにも該当する」と注釈をつけています。日付けは「19195月」の記述があります。大戦は終結しパリ講和条約が締結され帰国が話題になる頃だと思われます。時期としては俘虜生活全体を鳥瞰し総括できる時期といっても過言ではないでしょう。ただ私が関わる名古屋についての記述は全く見当たりません。彼が報告する収容所生活のマイナスの諸事例は、従って上記の習志野をはじめ他の4つの収容所の実態と考えて差し支えないでしょう。以上のことを前置きにして以下彼の報告の中から、私が特徴的と思う事例を列挙していきます。

収容所生活は美化されている

「収容所について真実を伝えているのは稀である。外から見て公平な判断ができないのは当然だ。大体訪問回数が少ないし、厳しい監視のもとで俘虜との接触は短時間である。ハンブルクの植民地協会のビュットナー嬢Frl.Buettnerの報告は、全く事実をゆがめたものであるし、シラー司祭の記述では、日本にいる青島の兵士達は恰も極楽浄土で暮らしているような印象をもたせる。ドイツ祖国では日本の収容所の印象は余りにもバラ色の光に染まり過ぎている。この論調で語るヴィーラー氏Wieler ザンダー嬢Frl.SanderWieler & Co., Hamburg)の話は・・・(一部脱字)・・・我々を不愉快にさせている。またヴィーラー氏の収容所についての間違った考えを無批判に報道しているドイツの新聞に対しても非難をせざるをえない。」(注:上記文中のドイツ人の実像や属性はわかりません。クルーガー氏が指摘する「外から見て公平な判断はできない」、「訪問回数が少ない」、「監視下で接触する」そして後述の「検閲される郵便物」などいくつかの障壁を通しての観察では、たしかに満足できる観察は無理でしょう)

偏向報道する新聞記事

「忘れてはならないことがある。クーロkuhlo陸軍中佐 1914年から1917年まで東京と習志野の収容所では最高齢者だったが、残念なことに彼は中国とアメリカのドイツ語の新聞に過度に美化した報告を送った。そして後日彼は兵士達に口述筆記させてドイツの新聞に載せた。彼はそれを好んでしていた。このような理解し難い言動がとれたのは、この記事を載せた(ドイツの)新聞編集者は日本の将校達と親密な交友関係があったからである。そのことを知ればよく理解できる。」(注:クーロ中佐については、瀬戸武彦高知大学教授作成の「俘虜名簿 その2」およびSchmidt氏の俘虜名簿を参照のこと)

本当のことは書けない手紙

「またここで触れておかなくてはならないことは、兵士達が収容所について間違った理解をするような手紙を故郷の家へ送らざるをえなかった事情である。その理由のひとつは家族を安心させるためであったし、またもうひとつは検閲を無事通過させるためでもあった。事実を伝えた手紙はほんの僅かしかなかった。しかしごく少数の俘虜は全くそれとは違う事情を故郷の家に送った人がいた。彼らは裕福な現金をもっていたからであった。そして彼らの収容所生活は平均以上に快適であった。」

(注:文末の「裕福な現金」が、どのような機能を発揮したのかはわかりません)

クルーガー氏のいうマイナスの印象事例

クルーガー氏がいう「美化されない本当のこと」とは何であったのか。彼の前掲レポート:Bericht ueber die Lager der deutschen Kriegsgefangenen in Japan(ラーン氏から入手)から紹介します。但しそれらが何時どこで発生した出来事なのかは明記してありません。彼の体験か伝聞です。クルーガー氏のいう「マイナスの事実」、それは文化の相違や民族的特性の問題でもあるかと思われます。下記の番号は、記述の便宜上私が付加したものです。

@収容所までの鉄道の移動時間は、もっと短時間で移動できる距離なのに駅に長時間停留して目的地到着までに長時間を要した。(注:punktlichなドイツ人にとっては、列車の長時間停車は不快な出来事だったのか)

A食事は物価上昇のため悪くなった。肉、米やじゃが芋の値段は2倍になった。お茶でよくわかるが、飲み物の味が薄くなりうまくなくなった。寄付金のおかげで厨房には毎月2円の補助がきた。それでも食事は充分ではなかった。(注:この報告は1919年5月の署名があるので、場所は習志野だと思われます。飲食物への不満は強かったようです)

B衣服には日本側は殆ど配慮してくれなかった。仕事らしきものはなかった。それが心身の悩みの原因になった。6時間労働で4銭か7銭だった、つまり就労した兵士には4銭で監視役の将校には7銭だった。(注:軍当局へ提出した当時の雇主の就労届では、通常兵士には8時間労働で60銭、技能者には1円が相場だったので、原文はゼロが落ちているのではないかと推測できるが、本当にそうだったのか)

C体罰は珍しくなかった。例えば俘虜のP氏とH氏は5、6時間壁の前で直立不動の姿勢で立たされ、疲れた様子をみせると歩哨が銃床で荒々しく叩いた。

D俘虜A は銃床で頭を殴られたので頭の皮が破れた。銃剣で何度もこずかれた。

E俘虜Ch はヘルニアを麻酔なしで手術された。松浦軍医は彼に11日後には60〜70メートル離れた治療室へ独りで歩いてくるよう要求した。軍医長は腕や下腹部をなぐり彼をベットから引きずり下ろした。その後彼は30日間の禁固刑に処せられた。(注:軍医の乱暴さは記してあるが、禁固刑の理由が書いてないので疑問が残ります)彼は拘留期間中何週間も洗濯は禁止され肌着の交換はできなかった。検閲は最悪の取り扱いを受けた。

F1919年春習志野の日本軍事務所のゴミの山から、1914年から1915年の間の手紙や新聞が出てきた。(注:俘虜生活1年目の手紙や新聞の配達はされなかったといっています)

G郵便小包は全部かその一部がなくなっていた。食料品の包は中のものが腐ってしまうまで放置されていたことがしばしばあった。

H罰として度々文通禁止の措置がとられた。

I現金、時計、鏡や絵画がよく盗まれた。

以下原文は脱字が多く判読し難いので事例列記はここまでとします。アウグスト・クルーガー氏がいいたい「美化しない真実」とは、以上のようなことです。収容所に対する評価や印象は、たしかに千差万別、百人十色、ステレオタイプでは語れない性質のものでしょう。しかしある部分日独両者の文化の違い、日常感覚や常識の違いの存在が影響している例は少なくありません。それを指摘する俘虜仲間からのコメントがあります。

フリードリッヒF. フォン シュリック氏(Friedlich F. von Schlick)の指摘

彼は日独間の文化の違いについて興味ある叙述をしています。シュリック氏は、第3海兵大隊機関銃隊・陸軍大尉(シュミット名簿では中尉)で名古屋収容所にいました。彼の報告資料は、Vortrag des Huptmanns Schlick Etwas ueber Verhaeltnisse der japanischen ArmeeBundesarchiv, Freiburug 登録資料番号不詳)

「日本人はどんな状況下でもベットなしで就寝できるので、・・・通常(注:「通常」とはベットで就寝できる通常の人数)の2倍の人数を宿泊させることができる。我々は宇品港へ移動する時、同様の体験をした。塩漬けのニシンのように板かマットの上ですごし、仰向けに寝ることはできなかった。・・・約30人の将校は不快な空気で充満した部屋に押し込められて驚いたが、日本の将校が青島へ移動する時も同じくここであったと知った時はさらに驚いた。日本人は質素な食事に不平不満をいわず、(注:不快な居住空間にも文句をいわず:筆者挿入)5日間の旅行を淡々とこなしていた。我々は渡航に8日間かかったが、その間食欲は全くなかった。」

シェリック氏は、日本人の常識というか生活感覚とドイツ人のそれとはかなりの隔たりがあることを知って驚いています。

同様の内容で、熊本と久留米にいたオットー・ステーゲマン氏(Otto Stegemann(注:後述で紹介しますが、Schmidt氏の俘虜名簿で参照)の報告があります。「宿泊設備についての主たる不満は、収容所の設計計画にはバラックの数に見合う広さがなく大変狭いことだった。散歩できる広さがない。唯一散歩で通れるところは収容所を囲む板塀とトイレの間だけだった。そのトイレはなんと1000人余に19しか用意されなかった。・・・自分達で庭造りをした。机や椅子も自作で住居らしくした。部屋に絵画を飾ることは許されなかった。・・・」Die Lage der deutschen Kriegsgefangenen in Japan : Bundesarchiv, Freiburg、登録番号25762

居住環境や散歩のスペースは、日本での印象や評価の大きなバロメーターになっていたといえます。現在の自衛隊の駐屯地や宿営地の設備は大分よくなっていると思います。当時の日本軍の居住環境の常識からいえば、特段に劣悪ではなく俘虜だからといって特に劣悪な環境にしたとは思われません。ドイツの俘虜達にとっては「耐えられない程の苦痛の種」だったかも知れません。その代償が例の「四阿」(東屋)Laubeの建築となったと解されます。昔の日本の軍隊では「蚤、虱や南京虫と同居」という話は、軍隊では日常茶飯事のことで「当然のこと」のようによくきかされた覚えがあります。

ステーグマン氏の上記の記述(Bundesarchiv,Freiburg,25762)の中の「俘虜取り扱いの実態」(Behandlung)の項では、どこの収容所とはいっていないが、

「一番困り悩んだこととは、(日本側の)心の狭量なこと、官僚主義的なこと、いじめ、不当な専制独断的な行為や優柔不断な態度であった。申し入れた願望は大抵受け入れられなかった。軍にとっては重大なことでもないのに、いつも仰々しく四角張った考え方で対応していた」と証言しています。

これに似た報告は他にも紹介しましたが、要するに官僚的な「事なかれ主義」「その場凌ぎ」「前例主義」「形式主義」「慇懃無礼」の態度で無力な俘虜達に対応していたということです。自負に溢れ自尊心の高い人間(民族、国民)にとって、相手が人間的なモラルに欠け信頼を寄せるに値しないと見えた時の当事者の落胆は想像に難くありません。収容所の居住環境の劣悪さとともに、俘虜にとってはマイナスの印象の大きなファクターとなったことは確かなようです。(注:官僚主義の弊害は、マックス・ウエーバーの研究で知られているように、あながち収容所に限らず近代的な統制組織下では必然に近い形で存在する現象で、ドイツの軍隊でも同様の性格は免れない傾向にあると考えられます)

しかしここまで話を進めると、収容所間の温度差や日独間の常識や文化の違いははっきりします。またマイナスの印象や評価の形成には多様な要素が関わっていたことがわかります。

 

3.ハーグ条約の具体化に問題

プラスかマイナスかという判断や印象のもうひとつの問題は、例の「ハーグ条約」の精神を収容所の現実の場で具体的にどう適応させるかという問題です。そこの基準値、物差しの幅は不確定で不透明です。簡単にいえば両者間に「常識」の曖昧さが介在し、「文化」の違いはその常識、あるいは善意では理解しえない距離の遠さがあったといえます。俘虜生活の苦楽の濃淡や管理運営上の評価の多様性は、実はここに起因するものと考えます。

そしてプラスかマイナスかの問題は、民族性や国家の成り立ちというレベルと、各収容所間の格差というか落差のレベルの2つがあると考えられます。

1)収容所間の温度差、管理運営の格差

一口に収容所の待遇や環境といっても様々で、同じ収容所でも入所当初の話か、あるいは年月を経た終盤の話か、収容所長の采配の違い、幹部スタッフや警備兵の見識や性格などの違い、厚生施設や酒保などの充実度の違い、芸術活動やスポーツへの理解の有無、あるいは収容所の敷地面積の大きさ、建物の質のよさ、同じ所内の収容者に規則違反者や統制違反の扇動者がいたかいなかったかなど、個々に違いがあります。個別事例で全体を論ずるのは、極めて非科学的な見方といわなくてはなりません。つまり俘虜がいた収容所の場所がどこであったか、そのことで印象や評価の位置づけが変わります。この場合の注意点は、場所は同じでも収容所長の交代があるので、例えば前期と後期に分かれて、同じ収容所でも2人の所長がいた場合、どちらかの任期中に「厳しく」、または「そうではなく厳しくなかったか」ということがありえます。そうでない場合もありますので、どの場合もそうだとはいえません。仮に両者の間に相違があったとすれば、それは所長の個性的要素の他に、時代と環境の変化による影響も考慮されます。一般論でいえば、前期より後期の方がよりよい印象を与えたと推測されます。何故なら後期では前期の経験を学習できるからです。

収容所の管理運営は収容所ごとにその管理運営は異なっていたのは、当然のことでしょう。「ハーグ条約」を基本として俘虜に関する諸規則ができたとしても、俘虜の収容は煩雑に発生するものでもないし、その都度相手と時代の状況を勘案しながらケース・バイ・ケースで処理し運営せざるをえないのが実情だからです。そこでよくいわれる「収容所長のウエイト」が大きくクローズアップされてきます。「俘虜の運命は時の収容所長によってほぼ決定される」といっても過言ではない場合もありえます。しかし所長が所内のあらゆる場所や出来事に目が届かず、所長に代って実質的な指揮をとる将校がいたケースがあったかも知れません。日本の軍隊では、時に古株の准尉クラスが部隊の中隊を「仕切る」事例もあったとききます。これも軍隊という近代的統率組織の避け難い「官僚制」の一種の産物といわざるをえません。

そういう組織の性格が支配しながらも、所長の人格や見識のインパクトが発揮されるケースもありえます。「バルトの楽園」で演じられた板東の松江所長の例がそれに当たるケースといえます。またこういう収容所側の要素の他に収容所周辺の自治体や市民側の反応や協力度が考えられます。その一方俘虜側の問題として構成メンバーの良し悪し、その質と量の問題も影響するといわざるをえません。

収容所ごとの温度差―名古屋は合格点―

本研究誌創刊号で高橋輝和氏の論文『サムナー・ウエルズによるドイツ兵収容所調査報告書』には、在日アメリカ大使館書記官サムナー・ウエルズ氏の各収容所の視察報告が紹介されており、管理運営の様々な様子が描かれ興味深く理解できます。Krebs氏もそのことに言及しています。以下その部分を紹介すると、

「1904−05年の日露戦争当時陸軍省が発令したロシア兵俘虜取扱規則の方針は、人道的な取扱であったが、しかし実際にはその方針に反して地方の軍隊に所属する各収容所の所長の裁量によって非常に様々な管理運営があった。そのために日本人が接する態度やドイツ人の気分は様々となった。久留米がその点では最悪で、福岡は1915年5人の脱走後は悪くなり、同様に松山と丸亀がそうであった。それに対して徳島―後で近い所に移った板東は特に良好で、これによく似た所は名古屋、姫路と浅草があった。大分からは良不良両方のちぐはぐな話が届いていた。」と記述しています。(Krebs: 前掲論文)
オットー・ステーゲマン氏(Otto Stegemann)の証言

彼は熊本と久留米の2ヶ所にいた俘虜で、第3海兵大隊予備伍長(Schmitt俘虜名簿3678)。彼の論文の中では「主に熊本と久留米に関連した話になる」と書いています。タイトルは、Die Lage der deutschen Kriegsgefangenen in Japan Bundesarchiv , Freiburg 登録番号25762)です。

温度差の違いについてステーゲマン氏は、

「大体収容所は様々だといえよう。何故なら俘虜収容中の基準となる考え方や措置方法は、その収容所と関係をもつ軍の指揮官や収容所自体にあったからである。最も居心地のよくない収容所は、青野ヶ原であった。最高によかったのは板東である。青野ヶ原については、下記の人達が詳細な記述をよせてくれた。以前天津にいた弁護士のクリンケ氏(Klinke)、オルデンブルク(Oldenburug)出身のヴィルヘルム・ミュラー氏(Wilhelm Mueller)、バルメン(Barmen)出身のワルター・ブッシュ氏(Walter Busch)である。」

この3氏からの情報をえて青野ヶ原を彼は最悪のランクづけをしたとみられます。ここで注目したいのは、俘虜の立場からも個々の収容所ごとに運営管理に温度差はありうるといっていることです。とにかく俘虜収容の予行演習などできないし、本番の収容経験は初めてで収容される国や民族は一様ではない。その都度「待ったなしの本番勝負」が俘虜収容の実態ですから、当然の話といえば当然ですが、それが俘虜当事者からの言葉である点で印象的です。

名古屋の就労は良好―ステーゲマン氏の証言―

ところで名古屋についてのステーゲマン氏の記述があるので紹介します。このステーゲマン氏の報告(前掲論文 Bundesarchiv, Freiburg, 登録番号25762)は、収容所全般についての宿泊、食事、健康管理などいくつかの項目ごとに論じています。その項目のひとつに「労働」の項目があります。その中の記述です。

「俘虜達はいつも機会がある毎に収容所から外へ好んで出かけ、運動不足の解消にも役立てていた。収容所の台所など所内の清掃も通常の仕事であった。日本人側の部屋の掃除や廃棄物の処理などは、日本人側でおこなっていた。外で働いて報酬の対象になった就労者は昨年(注:「昨年」とは、年月日の記述はないが、文末に「神戸や門司でスイス公使に権限委譲された後は、自由に行動できた」との一文があるので、帰国の前年の大正8年、場所は久留米収容所と推定されます)40人から50人はいたが、彼等は主に知識層か技術者であった。就労者は自由な気持ちで出かけ、たとえ報酬は充分ではないにしても満足した気分だった。軍のほうで些細なことなど言わなければなおよかった。軍の対応が大らかで好意的だったのは、私が知る限り名古屋の収容所だった。就労の立地条件は特によかった。仕事以外でも自分のための活動は大変活発だった。」

名古屋は当時でも大都会のひとつで幸い就労の受け皿が整っていて、俘虜達にとって就労は技能発揮の場所だったし、退屈しのぎや気晴らしのよいチャンスだったことは確かなようです。名古屋での就労については、中島所長の業務報告にも俘虜達は、自分達の技能発揮や運動不足解消のよいチャンスだったとの記述があります。しかし後述しますが、かならずしも名古屋は満点ではなかったというご遺族からの伝聞証言もあります。就労は技能職と単純労働に分けられるが、満足度でいえば前者は後者に優ったといえそうです。

ステーゲマン氏は、この報告の終章で俘虜生活全体について「我々には希望もなく終わりのない長くつらい時期だった。言葉では言い表せない程、極悪(bitterboese)の時代だった。私の報告はできるだけ感情的な叙述を回避し、理由のある苦い思い出も客観的にかつ節度をもって記述した。私は事実に即した真実性をより多く盛り込んだ報告にしたつもりである」と、自信に充ちた結語になっています。

シュリック大尉(Schlick, Friedlich F. von )の証言 

名古屋にいた彼の報告は前でもとりあげたが、日本人は居住環境や食事などに我慢強く悪条件に耐える資質をもっていることを紹介しました。ここでは日本軍の「お座なりの」「その場だけのご都合主義」、いわゆる官僚主義的な無責任性や非誠実性について彼は次のような事例をあげています。記録は1915年としてあるので、新しい収容所に移ってから約1年位の時期で林田所長当時のことだと思われます。番号は原文の例にならいました。

1.パン焼のことで1週間以上も長々と交渉は経過している。

2.将校達は風呂の設置を交渉しているが、一度も認めてくれていない。

3.将校用の厨房とその自主管理の話は、2ヶ月以上も結論が出ていない。

4.俘虜の兵士達は毛布を買ったが、商人に商品を戻さなくてはならなかった。(注:軍への届をしなかったか、軍からの許可以前に直接購入したためか)

5.将校や兵士達の願望は最低ギリギリのことばかりであった。軍は話だけは聞いてくれて口約束まではするが、一度も実現することはなかった。しかしこちらの願望を直接はねのけることはしなかった。親しそうな微笑を顔に浮かべていうことは、「我々はちゃんと軍当局にお伺いはしているよ。しかしあっさりとかたずけられてしまうでね」と答えていた。

同じ報告の別のところで、

「日本の下級将校は、命令でも監督の指示でも、喧嘩の仲裁でさえも、素早く決める能力に欠けていた。俘虜生活の間でのほんの些細な事でもいちいち陸軍省に電報で裁可を仰いでいた」と書いています。

彼の証言は他のことでも興味をひく叙述があるので、今の文脈と直接結びつかない面もあるが、既に紹介した俘虜の証言にも関連するので参考に紹介します。

医療についての報告です。

(日本軍の)医療の手本はドイツであるが、医療技術のレベルはまだドイツ並とはいえなかった。しかし看護は大変親切だった。重症の私の従卒の話だが、彼を世話した日赤の看護婦は、眩い位の清潔な容姿でかつ控え目でありながらいつも大変陽気に振舞っていたと、話していた」。

この話は例えば前述したクルーガー氏の、ヘルニアの手術を麻酔なしでしたとか、腹を蹴ったとか、という残酷な取り扱いとは対照的な事例として注目されます。収容所体験の正負の論議には、常に慎重な検討を要することをここでも痛感させられます。

2)俘虜側の規律違反

管理運営をめぐる評価は、先述したように様々な要素があって短絡的な結論は許されません。Krebs氏は帰国した俘虜達が日本側の管理運営の一面で厳しさがあったことを非難しているが、それは日本側だけに責任を課する問題ではなく、俘虜側に規律違反や秩序撹乱の精神や行動があれば、取締りは当然厳しくなると記しています。その点を指摘したKrebs氏の記述は、

「福岡についての否定的な見方(注:収容所の管理運営を“過酷“だという見方)は勿論日本側にのみ責任があるのではない。ドイツの将校が日本軍兵士による規律や秩序厳守に憤慨しそれに抗議非難したことにも責任がある」

名古屋の収容所でこれに関連した事件をあげてみると、次の事例があります。

夜遅くまで下士官室で酒盛りをしていたのを当直将校に咎められたことがあります(「新愛知」大正3年12月8日付)。収容所規則を堂々と無視して「勝手に」行動した結果です。遊郭遊びで懲罰をうけた俘虜もいた訳ですから、規則違反に対する注意や懲罰と、収容所生活の住み心地や食べ物の不満とは区別しなくてならないこともあります。事例ごとに検討しなくてはなりません。

処罰の事由をみると、些細な言動にも厳重な処罰が科せられている事例もあります。例えば「収容所の柵外へボールを出してしまったが、許可を得ずに外へとりにいった」(重営倉14日)、「規定に反した方法で日光浴をした」(重営倉3日)、「消燈後ラウベ(東屋)で飲酒した」(重営倉10日)「労務に出た際に許可なくソーセージを買ってきた」(重営倉3日)「規定の場所以外で喫煙した」(重営倉3日)「点呼に2分間遅刻した」(重営倉5日)「不時点呼の際寝台によりかかった」(重営倉3日)・・・。これらは名古屋の中島所長当時の記録からの抜粋ですが、前半の林田所長時代とは大同小異の罰則例です。つまり「検挙」と「実刑」は前例に倣ったといえます。

3)全般的には「友好親善」の評価―Krebs氏―

全般的には、たしかに友好と親善の数年間といっても過言ではないでしょう。Krebs氏のDer Chor der Gefangenenの論文の冒頭を紹介すると、次のような記述になっており日独友好の関係を彷彿とさせるものがあります。

「青島からきたドイツ兵俘虜は、アルフレッド・マイヤー・ワルデック総督のもと、日本の15の施設に分宿させられていた。それらは即席の仕上げで劣悪であった。日本人の受け入れ方は、概して友好的であった。日本在住のドイツ人は戦争中もずっと自由であった。経済活動でさえ許されていた。俘虜達は中国在住のドイツ人同様、救援団体を通じて物品の仕送りを受けていたし、振込みもできた。図書や楽器入手のための組織的な募金活動も可能だった。ドイツからの送金も可能だった。俘虜を訪問できるのは、通常1週間に1回で30分間だった。俘虜の宿泊施設は、とりあえず仮の施設で、公共施設、学校、寺院、勤労者宿泊所、緊急対応時の仮設住宅などで、後には空いている兵舎があてがわれたこともあった」(中略)「将校達は、兵士達の宿舎とは別の宿舎を用意されていたが、それはある面では俘虜達の共謀計画を阻止するためだったし、また別の面では将校達を優遇する目的もあった」(注:法的には「敵国」でありながら、在日ドイツ人の自由や経済活動の保障、特にジーメンスなど大企業や民間からの資金援助を主とした俘虜支援活動の容認は、在日俘虜の精神的物質的安定と活力の源泉となったと思われます)

Krebs氏は日本側の管理運営について全体として次のように高い評価をしています。

「それどころか他の(ドイツの)相手国(敵国)では考えられない程のことがなされていた。収容所近くを散歩したり水泳やグループで遠足に出ることもできた。収容所周辺で収入を得る俘虜達もいた。強制労働などをさせられることはなかった」

 

4.遺族が記憶している話

1)ケッシンガー中佐のご遺族の話

名古屋の収容所にいたドイツ兵俘虜の最高幹部ケッシンガー中佐のご遺族()からの私宛の文書(返事)では「祖父は私が5歳の時に亡くなっているので何も記憶はないが、ただ収容所の日本人将校の対応が理由でハピーではなかったといっていた」と書いています。それは自分自身が祖父から聞いた記憶なのか、それとも近親者から聞いた話なのかわかりません。おそらく後者だろうと想像します。ご遺族はおそらくもっと沢山の話をきいていると思われるし、帰国後講演をしたり何かの出版物に寄稿したものがありそうではありますが、一度も会ったことのない日本人である私に全てを伝える気持ちにはならないのは当然だと思われます。むしろ「ハピーではなかったといっていた」という一言だけでも教えてくれたことに感謝しています。具体的に何を指しているのかはわかりません。

2)名古屋にいた俘虜のご遺族の話

名古屋の収容所にいた俘虜の思い出話をひとりのご遺族がある公けの場所で話してくれました。

「・・・私のオジは徳島県の板東の収容所へ、そして父は名古屋へ来ました。父もオジも亡くなってから長くなるので、現在私の記憶は薄れています。二人とも中国のある商社に勤めており、1914年開戦とともに志願して青島へいきました。父は名古屋の生活について殆ど何も語りませんでした。『大変厳しい5年間だった』と父がいったのを記憶しています。外へ労役に出ることもあって、例えば名古屋の近くの飛行場建設とか、陶器工場でも働きました。収容所の食事は悪く、収容所長(Lagerkommandanten)の少なくとも一人はとても厳しかったようです。何年か後にその状況は改善されたようで、父が名古屋近郊の犬山やその他の所へ遊びに行ったことを語ったのを覚えています(注:犬山行楽の行事は大正7年10月22日の記録があり、中島大佐も同行しております)。一方徳島にいたオジはもっとよい環境におりました。しかし二人は日本での俘虜の間一度も会いませんでした。・・・」

100年に近い遠い昔の話で、本人はいないし残した記録もないという状況の中でご遺族から今これだけの話をきけたことは、大変な幸運だと感謝しています。この後この種の話を他の遺族からも運良く聞ける時がくれば嬉しいと思っています。      ところで「収容所長のすくなくとも一人は・・・」という人物ははっきりしません。「業務報告」の中の懲罰記録を時系列に点検しても、両所長時代あえていずれかが突出して懲罰件数が多いとか、厳しいとかという区別はつき難いようにみられます。ただ他のところでも言及したように、時代の推移とともに他の収容所との情報交換や管理運営方法の「学習」を重ねて、徐々によりスムーズな方法を採用していたということは想像できます。その点であるいは前期の所長の時期を指しているとも解せます。しかし所長ではなく普段兵卒と接触の多い監督スタッフの将校の一人を指していっているのかもわかりません。処罰の前例主義も考えられます。断言はできません。また受け止め方の個人差もあるので個別例を全体傾向というのは科学的ではないので、この議論は別の機会に例えば懲罰に関する研究報告の時に再考したいと思っています。

 

5.林田・中島両所長の俘虜観

名古屋収容所の開設と移転当時の話

本題の2人の俘虜観に入る前に開設当初の話をしておきます。名古屋俘虜収容所は大正3年11月14日に名古屋市中区上前津の東別院の寺院内に開設されました。東別院は開設時から翌年の9月1日までの約10ヶ月でした。日露戦争当時もここを借用していました。当初来名する青島戦の俘虜は約530名の予定であったので、収容力を考えて市内の東西の別院と建中寺の3か所が候補地でした。その後約330名に減員になったので、東別院1か所で間に合うことになりました。しかし開設後他の収容所から転入者がくるので手狭になり、翌年9月2日東区古出来町に新しい収容所を建設し移転することになりました。下士官や兵士は、新しい収容所で散歩もスポーツも伸び伸びとできる広い所だと大いに喜んだということです(「新愛知」大正4年9月2日付)。この日の「新愛知」には、面白い記事が書いてあるので次に箇条書きで紹介します。

・現在の移転時に病人がいないので、引越しは至極好都合だ。

・営倉には4人(名前はハーフェン、バーレー、シュミットとヤーン)。前者3人は無断外出で営倉入り。ヤーンは3人に同情して鶏卵を彼等に差し入れた罪で3日の営倉入り。ヤーンは4日目に営倉から出ると、懲りずに今度は桃を差し入れて15日の営倉入り。4人はまた揃って新しい収容所でも営倉入りとなった。

記事の要旨は上記の通りであるが、俘虜情報局の「俘虜処罰表」でみると、ハーフェンの記録はなく、バーレーは「買淫ノ目的ヲ以テ脱柵シ漫リニ民家ニ立到リ且其取調ニ際シ事実ヲ詐リタル科」と、新聞記事でいう「無断外出」の事実を説明しています。シュミットは「脱柵シタルモ其事実ヲ詐リ且臨時点呼ニ際シ約四十分間遅刻セシ科」と説明しています。バーレーは重営倉30日、シュミットは重営倉25日の懲罰です。この懲罰は重いのか、適切なのか。全体のデータの精査を経て判断すべきでしょうが、ここだけをみる限り過重な懲罰といえそうです。これは林田所長時代ですが、中島所長時代でも例えば、「指定外のトイレを使用したので重営倉3日」「厠以外の所で放尿したので重営倉15日」「点呼の際笑ったので重営倉3日」・・・など、件数や懲罰の内容とも両時代通じて余り差異は認められません。

懲罰は収容所間の比較や時系列的な綿密な精査点検が必要であるので、ここではこれ以上はふれないことにします。ただ「俘虜処罰表」を概観したところ、久留米、松山そして名古屋の件数の多さが目立ちます。この辺のことが俘虜の印象に影響している部分もあろうかと思われます。

2)林田一郎陸軍大佐の感想記

前任地は津市の歩兵第33連隊付(陸軍大学卒)。大正3年11月14日収容所開設時から大正6年8月6日中島大佐と交代するまで約3年間弱収容所長を勤めました。初代所長は、直面する課題にどう即決の決断を下すか、直轄上司の師団長や司令部の考えはどうだったか、周りの参謀役や事務局長役の人材にどれだけ恵まれていたかどうか、苦労の多い毎日だったと想像されます。この点は後期の中島所長の場合も同様だったといえます。

ところで『偕行社記事』502号付録(大正5年5月)に、林田一郎大佐の「俘虜ヨリ得タル教育資料」と題する手記が掲載されています。発行日から数えると林田所長就任以後1年半経過した時点です。概してドイツ兵俘虜の躾や考え方あるいは常識について、大変感心感動した報告になっています。当時のドイツ兵俘虜の理解に少なからず役立つと思うので、要点を紹介します。以下は私が要点や興味ある点を抜粋して紹介します。小見出しにあたる項目は原文通りです。文中原文を現代文で表現した部分と原文をそのまま紹介した部分とになっています。漢字は当用漢字に転換したものもあります。

緒言:

俘虜には長所も短所もあるが、ここでは長所についての(林田所長の)所見を紹介する。

禮節及容儀ニツイテ:

・市民から寄贈があった時には俘虜将校から丁重な礼状が必ず送られる。外出先の伊藤呉服店でのお茶接待に対しても、収容所に帰り次第直ぐに礼状を出す。「他人ノ好意ニ対して感謝ノ意ヲ評スルコトハ実ニ彼等ノ性情ニシテ感嘆ノ外ナシ」。

・俘虜将校は靴を履いた時、徒歩の距離が短くても、例外なく必ず靴の紐を締める。日本将校は怠けて締めない例もある。双方を比較すれば「其ノ容儀整備ノ差異幾何ゾヤ」。

・私が2人の俘虜将校と散歩した時のこと、右側を歩いていたら、突然真ん中の将校は素早く右へ飛び、私に敬礼して位置を変えた。日本軍でも同じ規定があるが、徹底していない。

・17歳の少年の俘虜でさえ、2人以上で散歩する時は、足を踏みかえて歩調を揃えて歩く。これも日本軍ではいつもそういうふうにはなっていない。

・営倉に入っている俘虜から、「軍法会議の法廷にいくので髭剃りを差し入れて欲しい」との希望が伝えられた。「営倉に入っているのだから、そのままでよいのではないか」というと、「髭蓬蓬トシテ法廷ニ出頭スルハ禮ニアラズト答エタリ」。我国でも「少クモ将校ハ武士トシテ此ノ嗜ミアルヲ要ス」。

勤勉ノ徳ニ就テ(注:「節約」とか「物を大事にする心」などの小見出しの方が適当か)

・ドイツから届く小包の衣類は殆ど中古品ばかりで、これには必ず修理用の補修材料がついている。日本軍の塵棄場には時として破れた靴下が入っているが、「靴下ヲ修理シテ使用スルト否トハ事甚小ナルカ如キモ之ヲ国家ノ経済ヨリ観察スレハ決シテ些事ニアラサルナリ」。

・俘虜は明るい日中はどこの電灯も点灯しない。必ず消す。日本人は自分個人の利害に関係なければ、公のものには目もくれない。物を無駄にしないのは経済思想が発達しているからで、「此ノ精神ヲ各種ノ方面ニ応用セハ国家ノ富ハ自然ニ得ラルルナラム此ノコトハ我下士卆ニモ見習ハシムルノ必要アルモノト信ス」。(注:当時の軍部は日本経済の行方にかなり敏感だった様子がうかがえます。ドイツ兵俘虜が物を無駄にしない話では、「俘虜の一行が名古屋の鶴舞公園を散歩中、水道の栓の緩みで水が漏れているのを見て直ぐに締めていた。日本人は一人も締めなかった」という話を私の知人が古老の誰かからきいた話として聞かせてくれました。

   単なる茶飲み話の一つですが、ありうる話かなと思い出しています)

公徳心ニ就テ

・俘虜が最初収容所に到着した時は、大変混雑しており、食事のナイフの数を間違

えて余分に配置してしまった。俘虜は「余分でした」と返しにきた。「若シ日本ノ兵卒ナリセハ此クノ如ク几帳面ナルヲ得ヘキカト疑エリ。・・・若シ誤魔化サムト欲セバ頗ル容易ノコトナリ然ルニ未ダ一回モ過不足ヲ生セシコトナシ」。

(注:旧日本軍では「員数合わせ」といわれ、洗濯で干してあるシャツでも靴下でも盗んできて、点検に間に合わせる能力が問われるとよくききました。この話を思いだします)

軍紀及服従ニ就テ

・収容当日職員が「午後11時までに入浴を終わるように」と告げると、午後9時頃将校事務所に一人の俘虜があらわれ、「兵卒は大変疲れている。就寝したいので入浴を中止して欲しい」と嘆願にきた。「入浴は午後11時までできる」といったつもりが、入浴を強制的に理解した。「此ノ四角四面ノ律儀ナル所ニ軍人トシテ大ニ味フヘキ点アリ」。

・俘虜の日直勤務者に翌日の予定を伝達すると、彼は何回も質問し確認をする。「何故毎回何回も同じことを繰り返しきくのか?」ときくと、「ドイツの軍隊ではそうしているから」と答えた。また所員が俘虜の誰かをここへくるよう伝えると、本人が来る前に伝達者があらわれて「本人に間違いなく命令を伝えました」と、それを伝えにくる。

・俘虜の上陸や汽車乗降の時の行動は、「静粛ナル点ニ至テハ真ニ賞賛ノ価値アリ」。非常呼集演習や火災呼集等では、足音以外の音はなく極めて迅速機敏で全て「整正確実」で「吾人ハ俘虜ノ動作ヲ見テ羨望ニ堪ヘス」。

・ある時夕方の点呼後の巡視中、ある見習予備士官の机上は「杯盤狼藉」しかも放歌していたので注意すると、彼は「延燈許可時間内に飲酒放歌はいけないとは、何時誰が命令したのか?」との暴言を平気でする。所員の説明で納得し謝罪したが、この類の事例は沢山ある。しかし一旦規則として公に命令すれば、一言の苦情もいわない。自己の主張に固執せず忠実に規則に従って働く。「是レ実ニ協同一致ノ精神横溢ノ結果ニシテ独逸ノ今日アルヲ致セル一原因ナラム」。

俘虜ノ常識ニ就テ

50歳の老大尉が最年少の俘虜に毎日数学、地理、歴史、理科等を教えており、ある日数学を教えている時に視察に出かけた。そこでは老大尉は対数表を使って計算する方法を教えていたので大いに感心した。

去年外出時に俘虜の中尉は、我所員に政友会や国民党あるいは同志会のことや総選挙のことなど、日本の政治について語っていた。土木工事についてもかなり専門的な知識を発揮して工事をしていた。同じ俘虜仲間の起居や内務に「不良ナル動作」があるので取締りを要する件を日本の将校に報告し、朝の点呼の際にどうすればよいかその指示をしてほしいといってきた。同胞のミスを敵国の将校に申告しても平気なのは、国民性でもあろうが、「常識ニ依リテ常ニ細心ノ注意ヲ怠ラサルモノナルコトヲ知ルヘシ」。

俘虜ノ悠々迫ラサル態度ト機敏ナル動作ニ就て(略)

俘虜ノ体育ニ就て(略)

下士ノ技量ニ就テ

(注:林田所長は、ドイツ軍の下士官の優秀さに注目し、日常の観察は勿論、ドイツの下士官制度や特典等についてよく研究した跡がわかります) 

俘虜の下士官は、兵卒の指導や取締りで注目すべき点がある。彼等は将校の手を煩わすことなく、監督指導する能力がある。「我軍隊ニ於イテハ此ノ点ニ達スル迄前途尚時日ヲ要スヘシ」。「殊ニ現役下士ハ敬礼、姿勢、注目、態度等頗る優秀ニシテ兵卒ノ及ブ所ニアラズ」。 

予備役と後備役の下士官は、青島戦前には東洋各地で商業界で働いていた。日本語、中国語、英語を学習したり、商業の本をよく読み将来に生かそうとしているようにみえた。現役の下士官は、除隊後公務員の職につく道が開かれており、除隊後の生活に困ることはまずないといわれる。ドイツの下士官が優秀なのは、この制度のおかげであると思われる。

12年間現役で勤務すると、官庁の文官採用の任用証が授与される。試験はあるが、まず合格する。就職先は、鉄道、税関、税務署、裁判所、市役所、造船、病院、山林業、建築、築城、材料廠(兵器廠のことか)、陸軍省等がある。文官採用の年齢は、30歳から35歳までであるので、12年間の下士官勤務の直後大抵文官となる。「即チ之ガ為一方ニ於テハ後進ノ途ヲ開キ優秀ナル下士ヲ在隊セシムルコトヲ得ベシ」。日本の下士官制度と大いに異なっている。下士官を優遇する国家の制度があるから、ドイツの下士官は優秀である。勿論そうばかりでなく、まずは本人の自覚があるからである。日本軍でも中隊長が下士官をうまく教育すれば、できないことはなかろう。

我軍歩兵ノ射撃ニ対スル俘虜ノ批評ニ就テ(略)

挙国一致ノ精神ト敵愾心ニ就テ

・ドイツ人の挙国一致の精神は旺盛なもので、ジーメンスは多額の金品を俘虜に寄贈しているし、在日や在中国のドイツ人は救恤会や婦人会等の名義で日本やシベリアの俘虜を援助している。ドイツ民族はこういう援助の精神においては、どこの国や民族にも負けないことを証明している。

・俘虜のハガキや手紙は、厳重に検閲されるので、「不穏ノ文句ヲ弄スルコト目下殆ト之ナシ」であるが、絶無ということはない。過日ドイツからきた手紙に不都合の部分があったので、検閲でそこを切り取って俘虜に渡した。俘虜からドイツへの返事には「汝ノ手紙ノ一部ハ神聖ナル検閲官ニ切リ取ラレタリ然レトモ予ハ汝カ此クノ如キ勇敢ナル手紙ヲ発送セルコトヲ衷心ヨリ喜フ」と記載していた。

・昨年12月重営倉になった俘虜がいたが、「彼に毛布を渡してほしい」といってきた仲間の俘虜がいた。「重営倉の者には毛布の貸与はないことは、知っているはずだ」というと、「ドイツ人はこの寒い夜に毛布なしで過ごす人種ではない」と反論した。しかしその俘虜は軍の命令をきこうとしないので、彼は重営倉30日の処罰を受けた。「概シテ独逸人ハ厚ツカマシキ人種ナリ即チ己ノ欲スル所ハ之ヲ訴へ或ハ要求シテ憚ル所ナシ」。

・収容当初俘虜将校は朝寝に耽る傾向があったが、初めは看過していた。ある日日本軍の若い日直将校が、俘虜将校室を巡視したところ、俘虜の日直将校はじめ全部の将校が寝ていたので、我日直将校がサーベルで床を叩いて注意を促した。翌日俘虜の高級将校がきて「今まで何ら注意をされなかったが、昨日佩刀で床を叩いて起床を促された。我々はあのような若い将校から再度注意などうけたくない。貴官からなんらかの指示を仰ぎたい」といってきた。その上彼はこの若い将校の俘虜に対する日頃の態度対応についても不平を訴えた。俘虜の身分を忘れて我官憲を軽蔑するような言辞を弄した。この件については俘虜将校全員を集めて詳しく説明したので再発しなかった。その他横浜にいる家族に会いたいので旅行を許可してほしいとか、熊本収容所の話では北京にいる病気の子供の看護にいきたいので旅行を許可してほしいという事例もあった。「俘虜ハ自己ノ権利名誉ニ関スルコトハ飽ク迄之ヲ主張シテ止マサルノ風アリ日本ノ遠慮勝チナル性質ニ比シテ雲泥ノ差アルモノト謂ウヘシ」。

・以上のような言動が何故出てくるかといえば、彼等はドイツを世界で最優秀の人種かつ最強の国と確信しているからである。他の人種にはどのようなドイツ人の要求も通ると考えている。・・・彼等は青島をまだ「東亜の小独逸」「我々の立派な青島」などといっている。

日本人は白人には敵といえども深く尊敬し・・・己を卑下するも甚だしい。「独逸ノ戒めニ『頭ヲ高ク保テ』ノ語アリ吾人ハ帝国ノ地位に鑑ミ大ニ頭ヲ高ク保タサルヘカラス」。

独逸ノ宗教ニ就テ(略)

結論

俘虜から得た教訓は、範囲は狭いがドイツ人は「善良ナル国民教育」によって「不断ノ努力心」を養い「延ヒテ大雄飛的民族ノ団結ヲ来タシ今日ノ独逸アルヲ致セルノ跡ハ以上ノ小範囲ニ於テモ亦之ヲ認ムルヲ得ヘシ各官(注:「偕行社」に結集する将校各位)幸ニ教育ノ参考ニ資セラルルヲ得ハ幸甚」。

 

全体を通じて、日本の将来を真剣に考えた手記になっており、さらに日本経済さえ心配していること、軍人としてまた人間としても、ドイツ兵の規律や道徳性の高さを評価し、またドイツ人の自尊心や自負心に注目しています。そして彼のドイツ下士官についての知識でもわかるように日本軍の質の向上に役立つことを常に考えていたように思われます。林田モデルは単に彼一人の性向にとどまらず、当時の軍人に共通した性向ではないかと思います。

 

2)中島銑之助陸軍大佐の感想記

中島大佐の前任地は、広島の第5師団参謀(陸軍大学卒)。大正6年8月6日から大正9年4月1日までの約2年半余所長を勤めました。名古屋収容所では林田大佐とほぼ同年月間の所長でした。ここでいう感想記は、大正8年6月8日中島大佐が岐阜県教育会の総会で講演した記録です。この記録は「岐阜県教育」第301号(大正8年9月30日)、第302号(同年10月30日)および第303号(同年11月30日)に掲載されたものです。タイトルは「俘虜を通じて視たる独逸国民性の一部」で上、中、下の3回の連載です。文中の小見出しは、おそらく編集者がつけたものと思われます。私見ではやや本文の内容と合致しない印象を受けるケースもあります。文中の漢字は当用漢字にしたものもあり、また本意を歪めない範囲で別の表現にしている場合もあります。鍵カッコ内は本文のままです。丸カッコ内の「注」は筆者のコメントです。

(一)有りの儘の紹介

「四六時中彼等の一挙手一動を眼前に認め、書簡の検閲から食事の世話等に当たって、我々の眼に映じた処の一班を其儘此処で述べようとするのであるから、必ずしも正鵠を失ったものであるとはいへないと考える。私は、私の感想を抜きにして、唯如何に我目に映じたかを諸君に紹介するに留め、是非の判断は、之を鋭敏なる諸君の頭に委せやうと思ふ。」

()正反対の事実

(注:日独の体格は対照的で、ドイツ人の体格の優秀さに感心しています)  

「・・・独逸では、将校が体重最重く、体格が最良く、日本では将校の体重が最軽く、体格が悪い」。これは我々が考えなければならない問題である。

(三)最多いのは外傷患者

(注:文章の内容からすると、小見出しは「体力の向上に励む」といったほうが適当かと思います)

運動を怠らないのは、若者だけではない。彼等は「一日に二回か三回は必ず散歩する。食後と就寝前は必ず散歩する。散歩した後でなければ就寝しない。」また夏は勿論だが、寒風肌を刺すような冬の日でも、冷水摩擦をする。夏の炎天下では周囲を毛布で囲い、その中で裸で日光浴をする。暑さに負けない体力作りである。受診患者の内訳をみると、外傷患者が最多い。器械体操、フットボール等で脛を蹴られたとか、テニスで関節を痛めたとか。このような状態だから、「彼等の体格は禰が上にも向上する、従って子孫の体格は益々良くなることになる。」

(四)科学的思想組織的能力

独逸人の特性には自尊心が強いことがあげられる。彼等は世界で最優良種族だと信じ、独逸人であることを名誉だと考え誇りにしている。その内容充実のために、先進諸国の国民性の長所短所を研究して、他国民以上に長所のある者を作ろうとする。今次の戦争においては独逸側が俘虜にした兵士達を対象にして、ある大学教授はその国民性を研究した。このようにチャンスがあれば、好機を逃がさず研究を重ね、ドイツ人の自尊心と誇りの内容充実に努めている。

独逸人の誇りの第一は、組織的観念である(組織的というよりは、科学的というべきか)。日本の職工は湯加減を自分の手でし、薬の調合は目分量だ。独逸人は寒暖計と秤がなければ、仕事をしない。「染料の作り方を教えよ」と俘虜にいうと、「秘密だから教えるわけにはいかない。それに科学的な頭もないのに教えてくれというのは僭越だなどと面憎いことをいふが、しかし、それが真理であるかも知れないと思ふ。」

「熟慮断行」が彼等の仕事に対する態度である。牽牛花の培養や小鳥の飼育をしている俘虜がいるが、彼らは仕事に着手するまでには、本を読んだり経験者に話をきく。了解しないうちは着手しない。手をつけたら右に実物を、左に書物をおき両者を交互に見比べる。計画通りにいかない時には何故出来ないかを研究する。ある俘虜が汽鑵を作ったが、うまく出来ないので研究を重ねて、結局日独の間で気圧、温度、湿気の差異が原因であることを知りついに完成した。

(五)研究的精神の旺盛

俘虜生活は研究に最都合であるので、彼等はこの機会を利用して従来からの研究の継続や新たに研究を開始する。郷里の父母からも研究を勧めてくる。益々彼等の研究精神は旺盛になる。彼我地を替えてみたらどうか。日本の父兄にこういう勧告をする者はいるだろうか。疑問である。俘虜は無為に時を費やすことを罪悪と信じている。暇さえあれば読書をする。読書によいのは独居に限る。各自沢山の小屋(四阿、東屋)を作ってそこで勉強している。収容所内には小図書室がある。どの新しい書物を見ても、手垢がついている。書物を買うだけで机の飾り物にしておくのとは異なる。毒ガスは進歩した科学的研究が戦争に悪用された姿である。科学の副産物といえるが、独逸では四十種程研究されていることには感心せざるをえない。

(六)執着、努力、勤勉

研究心が旺盛であると同時に執着心が強い。手を替え品を替えて意見を貫こうとする。不可となっても、当初に話した相手の留守を狙って別の所員にもってくるとか、新人の所員に願い出るとかして、希望を実現しようとする。発明もこのやり方で諦めない。失敗しても諦めない。失敗の原因を調べる。何とかして目的達成に努力する。

勤勉さは俘虜生活にもあらわれている。豚を屠殺する時には、終わるまで汗を拭かない。毎日百五六十人宛働きに出るが、仕事場に着くや否や直ぐに上着を脱ぐ。日本の職人のように「先ず一服」とはいはない。十時に十分間休み、十二時に三十分間食事時間で休 む。   その他には雑談したり仕事の手を休ませない。その代わり規定の時間がくれば、どんな仕事をしていても飛んで帰ってくる。仕事中は監視者の有無に関係なく極力働く。他人の様子を見ることもない。非常に勤勉で能率が極めて大きい。

(七)極端なる個人主義

彼等の間には懇意というものはないようである。何があっても自分独りでパクつく。「君も一つどうだ」ということがない。物干しで雨が降り出すと、自分のものは取り込む。しかし同じ所にあっても他人のものは取り込んでやらない。起床ラッパで自分は起きるが、隣の友人は起こさない。それで友人が罰を受けても平気でいる。自費で点ける電灯を他人が点けると、割前を出せと要求する。彼らはそれを当然のこととしているが、我々には随分変に思われる。彼らは自己の個人主義の主張とともに、他人の個人主義をも承認しているから、それで共同生活が調節されて、衝突は起こらないと思う。

(八)私生活にも日課表

自分の権利と同様に他人の権利をも尊重する。かつ義務に従う精神が厚いので、人と人との間に衝突を起こさない。電車が満員の時に車掌が手を振る。すると乗ろうとしない。車掌の権利を認めて、それを侵害しない。二人以上集まれば必ず規則を作る。・・・このように規律的に規則的に何事も処理していく習慣は独逸人の長所である。

(九)唯一の信条は実益、実用

国が富むと弱兵になり易い。富国となれば国民は驕奢になりがちになり、富国弱兵となる。ドイツは「殖産工業上の成功によって富国の実を挙げたに係わらず、嘗て驕奢に流れなかった。飽迄も摯実剛健の気風を失わなかった。之等の点は俘虜の日常を見て特に吾人の感ずる所であって、摯実剛健の風が卓絶せる経済思想となって現れたのが、之が独逸国民が戦前世界貿易上に跋扈した大原因であらうと思ふ。」

物の売買で彼等の唯一の信条は実益実用ということである。彼らはいくら金があっても金時計は買わない。あくまで実用と便利さに着眼している。「要するに、何処までも品物の実用上の価値で競争せやうといふ摯実の行り方である。」

(一0)徹底せる廃物利用

彼等の経済思想は、積極的には実用商品の売買であるが、消極的には廃物利用となる。一本の傘が壊れても捨てない。傘の骨を各自で作る小屋の天井板の代りに使う。紙袋が空くとそれで帳面を作る。最後に便所へもっていく。(トイレは水洗ではなく旧式でした。この地域の下水道の敷設は昭和5年、1930年頃ですので収容所閉鎖約10年後です。因みに便器は洋式でした。)水道の消火栓の廃物で、収容所の鉄棒の被いにしていた。廃物利用だけではない。物を大事にする。俘虜は肉屋で豚肉を買うのを嫌って、所内で屠ることを望む。骨と毛と爪と歯以外、内臓は勿論、血液の一滴まで適当に調理して食膳に上げる。

(十一)バイブルよりも煙草の一箱

新教派が3分の2か5分の4。残りが旧教である。宗教には冷淡で礼拝にいく者はいない。故郷からバイブルを送ってくると、「これより煙草のほうがよい」という有様である。最初は宣教師が来ると、少しは集まったが最近は全く一人も来ない。宣教師の話は英仏など連合国の罵倒ばかりで不穏かつ禮儀を失したことになるので、その後は原稿の検閲をしているが、宣教師の話をききに来る者がいない。・・・今はこの有様で神の存在を信じない。死ねばその先はない。寺院も無駄だし僧侶の扶養は非生産的だ、全て廃止せよなどと極論をいう者までいる。クリスマスや復活祭は、ご馳走が食べれると思うだけで、習慣的におこなっているにすぎない。

(十二)名誉ある青島の勇士

独身の俘虜は故郷の新聞や雑誌に求婚の広告を出す。応募者がいるから面白い。送ってくる書面をみると、「青島の勇士を夫に持つことは名誉です」と書いてある。俘虜となったのは、不名誉ではなく誉められている。「戦闘力が尽きた以上は無益に死傷を出すのは愚だ。生命は永久。戦後の発展に於て国家の為貢献すべきである。」俘虜の多くは戦前東洋方面で商工業に従事していた。それが皆戦死したら戦後独逸の東洋貿易は全滅するであろう。開城には皇帝陛下の勅許が出たという。その真偽はわからないが、それがためか退嬰的にならず小さくもならない。「我は独逸人なり」を振り回す。重営倉に入れられて、毛布がないと「吾等はこんな生活をするような下等な人種ではない」と熱を吹く。食事では「日本の兵隊よりも体格が大きいから、同じ物では困る」という。少しも遠慮がなかった。尤も停戦後は遠慮するようになったが、要するに「俘虜たることを不名誉だと考えて居ない。」

(注:中島大佐の「死より生を選ぶ」俘虜観と俘虜の戦後の活躍を期待するコメントには注目したい)

(十三)高等教育を受けたもの三十一名(「就学率高く精神状態安定」とでもしたほうが適切か)

独逸では就学を奨励しているので、就学率は世界一である。小学校教員の養成に最大の力を注ぎ、師範学校卒業後二ヵ年間の実地研究を経た上更に試験をして採用される。・・・教育が普及している結果だと思うが、名古屋の収容所では精神病患者は僅か2名にすぎない。無教育で精神生活上の慰安を得ることが出来なければ、「ホームシック、神経衰弱、甚だしきは自殺者を続出せしむることになるであらうと思はれる。」

一緒に散歩していると、普通の兵卒が「生意気な程に外交上の事を話しかけ、各国皇帝や、国務大臣の名を総て知って居るには驚く、下士であると、貿易品て産出地名や種類知って居る。将校になると、更に各国の政治状態に通暁して居る。寺内が如何だ、政党内閣は如何だと、盛んに政見を陳べ、或は露国過激派等に対する所見を陳べるが、其の意見が、大部分は肯綮に中って居る。常識と学力と並行して、一般に我日本より高いことは俘虜生活其他各種の方面に現れて居る。」

(十四)独逸には独逸魂あり

日本に大和魂があるように、独逸にも独逸魂がある。独逸の愛国心は個人主義を出発点としている。・・・「要するに自分等の生存の為に、国家やカイゼルが必要だという結論になり、我国民とは出発点を異にして居る」(日本について中島大佐の説明はないが、日本の愛国心は第一義的に国家の存在を前提としたもので、個人のことは議論の外ということか)。  ひとりの俘虜の娘から父宛の手紙で「敵国日本に金を落とすのは苦痛であるから、上海に行く」と書いてあった。十六歳の娘にして尚此意気込である。ある老母からの手紙では、兎も食べれない。家畜は登録され自由に処分できない。戦線に居る兵隊さんのためだと思えば苦痛にならない、と書いてある。日本に大和魂ある如く、独逸には独逸魂があることを忘れてはならぬのである。」

(十五)独逸戦敗の原因

軍事策戦や外交に誤りがあったことは、勿論であるが、物資の欠乏が大きな原因だった。海上封鎖による物資の欠乏に備えるために、食料制限、家畜の登録、戦時パンの製造等をしたが、それでも支えられなかった。食糧の欠乏は、開戦後ベルリンのおける出生並びに死亡状態調査の結果が証明している。

           出産率    死亡率

1913    42      28

1914    37      29

1915    32      28

1916    25      27

1917    19      34

パンや肉の供給を厳しく制限した結果、髪も爪もない子供が生まれたり、死産が多くなった。15歳以下の死亡率が非常に増した。露国の過激思想が独逸に流れ込み、露国で俘虜になっていた兵卒が過激主義者となって帰国した。物資食糧の大欠乏の所へ来るから、火薬の側へ火を持ってきたようなものになった。さらに第5次の大攻勢が失敗したので、進退此処に谷まることになった。・・・「其原因種々ではあるが、主としては之を物資の欠乏に帰しなければならぬと思ふ。」

(十六)講和条件に対する感想()

(十七)俘虜の見たる日本

私服(和服着物のことか)については別に奇妙には感じていない。食物は我々(ドイツ人)の活動には適当ではない、また家屋は隙間が多くて冬は寒いといっている。

町を歩くと各商店が火鉢を抱え込んで居る。仕事がないのかと訝る。日本商人は嘘を吐いて仕方がない。酒保の商人がモルゲン「明日」を濫用するのが甚彼等の感情を害して居るらしい。日本商人は努力と能力とが足らない。売る代物が四年間少しも変わらない。我々の好きなものが分りそうなものだとこぼし、帳面が不正確で間違の多いことを指摘して居る。

農業については独逸で不毛の斜面地に牧場が多いが、日本には牧場が少ない。農家に牧畜其の他の副業が不足して居る。これらが欠陥だと見ている。田舎を見ると大地主が居らぬ。之を見ると日本社会は貧富の差が著しくない様である。之は日本国民の幸福であると彼等はいって居る。

其他道路橋梁が弱い。靴の底が薄い。家具類は一般に脆弱。これは彼等の批評の種で、各工場の機械の多くは旧式だと批評して居る。

(注:ここでの日本批評の多くは、本誌の俘虜側の感想や印象の中でも指摘した点があります。商人の「その場だけのご機嫌取り」は、他の俘虜の感想でも日本人は「表と裏」の二重人格をもっているということと共通しているかと思われます。商人の工夫が足りないとか、帳面の不正確さの問題は、個体差の問題があるし、また収容所以外ではどうなのか、一般論では断言しえない部類の感想でしょう。農業についても、日本の農業史や農家全体、あるいは国土の自然環境などを研究する時間があれば、また違った見方になったかと推察できます。社会資本の脆弱さ、日用品やインテリアの粗末さ、あるいは当時の工業水準などは、ご指摘の通りかと思われます)。

 

6.おわりに

今回は、前半でドイツ兵俘虜からみた収容所の管理運営や日本軍係員の態度などについて、また後半では名古屋収容所の初代所長林田一郎陸軍大佐の手記と二代目所長の中島銑之助陸軍大佐の講演記録を紹介しました。感想や印象の類は、いつの時代でも限られた情報からのイメージアップであるので、自ずと一定の枠内での話になることは当然です。それだけに今後の検証の継続、そのためのより多くの情報の収集は欠かせません。私ひとりの力も限られているので、これまでもそうであったように、先輩や同じテーマの研究者の方達からのサポートや相互連携の必要を痛感しております。今後ともよろしくご指導ご援助をお願いする次第です。

今回計画し未完になっているテーマでは、名古屋収容所関連の懲罰の実態分析や就労先を含めての実態把握あるいは官民からの寄贈や寄付金の実態調査でした。次回間に合えば発表したいと思っています。

また今年例の映画「バルトの楽園」が公開され、そのチャンスに東映主導で名古屋俘虜収容所の写真展示会が、名古屋の松坂屋本店で開催されました。この機会に新聞放送が一斉にこれをとりあげましたが、その取材の対応を契機に逆にこちらが再調査や新発見の収穫もありました。印象的なことを二、三あげておきますと、

市民が知らなかった理由

ある民放の記者から「何故これまで名古屋の収容所のことが市民に知らされなかったのでしょうか?」という質問が本番前の雑談中にありました。一瞬戸惑いましたが、「市や県がこのことに腰を入れて取り組まなかったからでしょう」と、見方によっては責任転嫁のような回答をしました。この話を別のマスコミの新聞記者に伝えたら「いやそうではない。それは我々マスコミの責任ですよ」と、キッパリ答えてくれました。この話をきいてナルホドと納得する気持ちになりました。

名古屋が受勲した理由

また複数の記者から「何故名古屋だけが受勲したり感謝状を貰ったのでしょうか?」という質問がありました。改めてそういわれてみると、確かに徳島の板東も良好どころか最善の収容所だったのに。「何故」ときかれて、これは研究すべき問題ではないかと気がつきました。ただ受勲というのは他の表彰もそうですが、本人ではなくて別の第三者が申請して実現するものなので、申請者の存在や申請する事務手続者の存在が不可欠です。私は記者に「それはベルリンでもいって調べてこないとわからないでしょう」と答えておきました。名古屋にとっては大変名誉なことですので今後の課題としたいと思います。市役所の担当のセクションは、別に関心はないようで勲章の行方もご存知ない様子です。

この件は、当時の申請書を閲覧して確認をとらないと何ともいえませんが、あえて推測すれば帰国時に名古屋市から俘虜全員にネクタイピンを記念の「みやげ」として贈ったこと。抑留中も慰問や見学、あるいは寄付行為が行政や企業、市民団体や個人からよせられたこと。特に幼い女子児童の菊のひと鉢をケッシンガー中佐に献上した話は印象的でした。また就労先で「生き甲斐」を感じ待遇が好印象だったこと(例外もありますが)。余暇中に市民や家庭との個人的な親密な交流があり、音楽会への招待、サッカーなどスポーツの交流、教師の体操見学、ドイツ留学医師団の慰問など。死亡者の葬儀には出入りの商人達も参列して弔ったこと。名古屋ばかりでなく他の収容所でもみられた光景ではありますが、とりあえず数えてみると、こういうことが受勲の理由になったのでしょうか。

六角形の四阿の話

松坂屋での写真展示会が終了した頃、一通のメールがきました。「郷土史の本に名古屋市の覚王山にある揚輝荘にドイツ兵俘虜収容所から移した四阿があったと書いてあるが、その話は本当か?」という質問でした。差出人は揚輝荘の研究家で代々松坂屋と深いご縁がある方だときいております。以前大正の新聞記事に「閉鎖を機に収容所の建物を購入移転する人を求めている。伊藤守松氏は一軒購入を決めたそうだ」という記事を読んだ記憶がかすかにあったので、再調査したところその通りでした。六角形の四阿でした。このことがあって、かねて懸案だった愛知県西尾市にあったといわれるドイツ兵俘虜建築の六角形の四阿の話が急に思い出されました。その後この西尾市の件は各方面に調査協力をお願いしておりますが、解明の実は未だあがっておりません。しかし不特定多数を対象にイベントをすると、なんらかの収穫がえられるのはありがたいことだと喜んでいます。

 

7.ご指導とご協力に感謝

この原稿をまとめるについては、俘虜研究の諸先生はじめテーマに関心のある皆さんからの示唆、指摘、資料情報の提供など、好意あるご指導やご協力を頂きました。この場をかりて感謝申し上げます。

在独の方ではドイツ兵俘虜の感想記や印象記録について資料紹介をして頂いたDr. Gerhard Krebs 氏。名古屋関係のドイツ語文献の資料検索をお願いしたAxel Wittenberg氏(Bundesarchiv, Freiburg)。突然の問合せに快く応じて下さったKessinger 中佐のご遺族、Friedrich-Christian von Kessinger氏。俘虜研究者ラーン氏からもドイツ俘虜の手記などご紹介頂きました。在日では田村一郎ドイツ館館長、高知大学瀬戸武彦教授から種々の資料やご高見を賜り大いに参考になりました。また「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」のメール上で俘虜研究者星昌幸氏からの中島銑之助所長の講演記録(「岐阜県教育」)の存在情報を知ることができました。またドイツ語文献の解読に、元南山短期大学学長でカトリック神言会多治見修道院院長のシューベルト神父、愛知教育大学助教授のオリヴァー・マイヤー氏にご援助を頂き感謝しております。

偶然ほぼ同時期に刊行された最近刊の下記の図書は、基礎的かつ基本的な文献として参考にさせて頂きました。

田村一郎編著『どこにいようと、そこがドイツだ』―板東俘虜収容所入門―(鳴門市ドイツ館 第3版 2006 平成18年3月31日)

瀬戸武彦著『青島(チンタオ)から来た兵士たちー第一次大戦とドイツ兵俘虜の実像―』(同学社 2006年6月9日)

亮一著『松江豊寿と会津武士道―板東俘虜収容所物語―』(KKベストセラーズ 2006年6月1日)

 今回テーマとしては取り上げながら、まだ精査を要する問題は山積しております。そして手をつけていない分野も限りなく沈潜している筈です。諸先輩や関心をよせて頂く皆さんのご指導ご協力を重ねてお願いしてこの稿を終わります。

 

 

 

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