ソーセージに関する備忘 
星 昌幸
 
  日本におけるソーセージ伝来の地は習志野であると、あちらこちらで紹介しているので、問い合わせを受けることが多い。映画「バルトの楽園」でも、板東収容所内でソーセージが作られている場面が登場していた。これは史実である。それなのになぜ、習志野をもって元祖というのか。今日は、改めて経緯を整理しておくことにしたい。
  ソーセージがいつ日本に伝わったか。これはまず、中華風の腸詰をソーセージとみなすかどうかで違ってくるらしい。また、単に日本の地で西洋人が食したとか、日本人がもらって食べたというだけならば、既に徳川時代の長崎に事例があるらしい。また、ドイツ捕虜を迎えた大正時代、既に国産ソーセージらしきものは製造されていた。板東では徳島新魚町・浜口伊平が、久留米では松尾音吉が、収容所にソーセージを納品している。しかしソーセージ作りは、マイスターに弟子入りし、永年の徒弟修業のあげくようやく教えられる秘伝・口伝で支えられていた。日本では当時見よう見まねの、ソーセージらしき形をしたものしか作れなかったのであろう。これがいつしか国産化が可能になり、今では何の変哲もない日本の食品になった。子供のお弁当の玉子焼きの隣に、ソーセージが定位置を占めるようになった。ここへ至る大きな契機が、実は習志野で、日本の農商務省畜産試験場に秘伝が伝えられたことにあったのである。
  留学帰りの新知識、飯田吉英(いいだ・よしふさ)技師は、千葉に新設されたばかりの農商務省畜産試験場で、栄養食ソーセージの国産化に取り組んでいた。ところが、すぐ近傍の習志野で、ドイツ捕虜が盛んにそのソーセージを作っているという情報に接する。早速習志野に飛んだ飯田技師は西郷所長に面会し、捕虜の中にいる5人のソーセージ職人を集めてもらったという。しかし、彼らは秘伝の公開をためらう。無闇に他人に教えてしまえば、自分らがギルドから追放されてしまう伝統の技なのである。しかし、日頃から捕虜に温情をかけている西郷所長の再三の頼みに、遂に彼らが折れてくれたのだった。カール・ヤーン他5人は飯田技師の前でソーセージ製造を実演して見せ、飯田技師は熱心にノートに書き取った。時に大正7年2月18日のことであり、全部終るのに10日間を要したという。飯田技師はこのノートをテキストにし、試験場に全国の精肉業者を集めては盛んに講習会を行った。これが、ソーセージというものが日本に根を下ろす第一歩になったのである。
  一方、横浜ではドイツ人マルティン・ヘルツに弟子入りして、永年国産ソーセージ開発に取り組んでいた大木市蔵という青年がいた。彼をもって国産ソーセージの元祖としている本も多いのだが、彼が大正8年第1回畜産工芸博覧会に出品したソーセージを、飯田審査員は「風味色沢に於て欠陥を有するもの多し」と評している。しかし、市蔵のソーセージは、これを機に一大飛躍を遂げる。この後すぐ銀座に、ソーセージ専門店第1号を店開きするまでになるのである。市蔵の永年の苦労が、なぜ一夜にして開眼したのだろうか。これは私の想像に過ぎないが、審査員として見守っていた飯田技師が、習志野でヤーンから教わった秘伝を彼に教えてやったのではないだろうか。
  ドイツ捕虜の解放によって、日本に残りソーセージ作りに取り組む者が出てきた。久留米にいたアウグスト・ローマイヤは、収容所で出された国産ソーセージが「とてもソーセージなどと言えたものではなかったから」日本でソーセージ屋を始める決心をしたのだという。似ノ島にいたヘルマン・ヴォルシュケと習志野にいたヨーゼフ・ヴァン・ホーテンは明治屋に雇われ、同社のソーセージを軌道に乗せる。ヴォルシュケは後に独立し、ソーセージ店「ヘルマン」を創業した。また、習志野にいたカール・ブッチングハウスは、後年神戸に店を開き、ブッチングハウス・ソーセージは神戸市民に親しまれていた。彼と一緒に習志野を出たヘルムート・ケテルは、銀座にレストランを開き、ケテルのソーセージは、東京のハイカラ族の嗜好を確実に捉えた。
 
  飯田技師は、習志野でソーセージを教えてくれた捕虜は、カール・ヤーン他5人いたと伝えている。ヤーンは、その後どうなったのだろうか。また5人とは、誰と誰だったのだろうか。
  後の問から考えれば、ヤーン、ブッチングハウス、ヴァン・ホーテン、ケテルと、もう一人の誰かである。この答えは次の文書(国立公文書館アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp/DAS/meta/MetaOutServlet?GRP_ID=G0000101&DB_ID=G0000101EXTERNAL&IS_STYLE=default&IS_TYPE=meta&XSLT_NAME=MetaTop.xsl)にある。
「俘虜労役に関する件」(欧受大日記大正8年9月)レファレンスコードC03025084800によれば、東京市芝区三田二丁目七番地 合名会社木村屋商店代表社員清水徹吉が習志野収容所にいる2名を雇用する願いを出し、許されたという。この文書に「労役俘虜 海軍一等水兵カール・ヤーン 同二等水兵トーマス・ペーテルセン。労役ノ種類 腸詰製造作業。場所 千葉県東葛飾郡船橋町屠殺場構内。時間 自午前八時 至午後四時 (日曜祭日ヲ除ク)。賃銀 日給金壱円」と記されている。したがって、5番目の男はこのペーターゼン(俘虜番号193)に相違あるまい。
  なお、カール・ヤーンはさらに、「俘虜労役の件」(欧受大日記大正8年11月)レファレンスコードC03025100100では、東京市神田区三崎町一丁目東京牛乳株式会社に、やはり腸詰製造作業のために雇われている。また、解放時のリストでは「日本内地契約成立者」にヤーンの名がある。したがってヤーンは、解放後もしばらくは東京牛乳にいたものと思われるが、その後の足跡は残念ながら、今のところわかっていない。
 
  習志野でヤーンが飯田技師に、言わば「皆伝免許状」として渡してくれたソーセージ製法の原書が、麻布大学図書館に残っていたこと(メール会報0123号)、また習志野での飯田ノート、麻布大学の原書、それに小林武治郎マイスター(大阪府吹田市)の技が一体となって、映画「バルトの楽園」に向けた当時のソーセージの復元に成功したこと(http://wiener-club.com/cont06/cont06-01.htm)など、当メルマガの読者は既にご存知のことであろう。
  以上、自分の備忘も兼ねて、習志野のソーセージ伝習について書き付けておくことにする。
 
 
 註) 内海愛子「日本軍の捕虜政策」(青木書店、2005)96頁は、「習志野に送られたケテルをはじめ、オットラ・ベルクリンク一等砲兵も腸詰製造業者だった」と指摘する。Otto Berkling(俘虜番号908)であろう。「第六の男」がいたものか、それとも私が上に推測した5人のいずれかが誤りなのか。他日を期することとしたい。
 
 
 
 
 
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