高木繁に関する覚書
小阪清行
 
高木大尉:
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 松江豊寿と比較して、高木繁については不明の点が極めて多い。限られた情報源から、比較的信頼に値すると思われる点を列挙してみたい。
 高木繁には妻理久(りく)(徳島の足袋屋の次女)との間に四人の子供がいた。長男ヒデオ、次男弘司(故人)、長女サカエ(故人)、三男利男の四氏である。以下の情報は、利男氏の長男康男氏から得たものが多い。
 高木繁(1886[明治19]〜1953[昭和28]、享年67歳)。父高木寄生二郎(きせじろう)、母チセ。父親は海軍の主計官をしていた。出生地、丸亀市。三男利男氏の記憶によれば、本籍地は丸亀市中府町463の1(ひょっとすると10?)で、現城乾小学校のすぐ側だった。
 繁は陸軍大阪地方幼年学校に進み、陸軍士官学校を卒業したが、特に語学に秀で、ドイツ語をはじめ、英語、ロシア語、中国語など7ヶ国語に通じていたことは周知の通りである。
 松江所長とともに徳島収容所に赴任したときは陸軍中尉だったが、徳島時代の大正5(1916)年5月2日付で大尉に昇進し(川上三郎先生からの情報)、板東収容所で松江の副官となった(当時31歳)。それ以後の高木の経歴は、瀬戸武彦先生の名簿によれば、以下の通りである。(瀬戸先生によれば、この記述の主な情報源は、繁の次男弘司氏へのインタヴューに基づく読売新聞徳島版の記事である。)
 「板東収容所閉鎖後は福山連隊等を経て、1929年に陸軍中佐で退役した。退役後は兵庫県外事課、ドイツ系のバイエル薬品勤務を経て、1935年満州のハルピンに渡った。外資系の百貨店秋林洋行に勤務し、日中ソ間の情報戦に従事したとも言われる。終戦後、ソ連軍によってシベリアのバイカル湖東方のチタに抑留され、最後はスベシドロフクス州アザンの病院で病没したとされている。」
 康男氏が靖國神社に問い合わせたところ、以下のような回答があったが、これによって上記の内容がほぼ正しかったことが証明されたと言えるかもしれない。
 一、階級: 準軍属特別未帰還者邦人
 二、所属部隊: 浜江省哈爾浜市ハルビン特務機関
 三、死歿年月日: 昭和二十八年四月三十日
 四、死歿場所: ソビエト連邦スヤンドロフスク州アザン病院
 五、死歿時本籍地: 兵庫県尼崎市西字荻ノ戸五三九ノ一
 六、死歿時御遺族: (妻)高木 りく
 七、合祀年月日: 昭和四十八年十月十七日
 繁の先祖についても記しておきたい。
 1658年[万治1]に播州龍野より丸亀に移り住んだ先祖高木佐介(佐「助」と書かれた史料もある)が住んでいた屋敷跡は、「丸亀ドイツ兵俘虜研究会」の嶋田典人氏によって、掛軸「元禄四年丸亀町家之図」に基づいてほぼ確証されている。県立丸亀高校の南東角付近である。なお、康男氏からの情報では、高木家の石高は三百石であった。
 高木家の菩提寺である法音寺は丸亀市南条町4にあり、浄土宗禅林光明兩寺の末寺である。丸亀市観光協会のHPによれば同寺は「京極高和公に従い、兵庫県龍野市から丸亀に移り、延宝2年(1674)に創立された。(中略)墓地には、文学の井上通女・三田義勝・巖村南里、俳諧の齋田五蕉、砲術の赤羽杢之進、医術の三田耕亭や勤皇家土肥大作、大阪屋黒瀬家等の墓碑がある」。すなわち丸亀では名刹とされている。
 高木家の墓石に刻まれた文字は以下の通りである。
  左側面: 延寳二年以降先祖代々 大正四年四月建之高木寄生二郎
  右側面: 元祖高木佐介萬治元年正月 京極高和公丸亀城主ニ移封 ニ付龍野ヨリ隨ヒ来ル
 かなり以前、墓の墓地内移転の際に住職が確認したところ、墓の中に遺骨は全然入っていなかったとのことである。ソ連から遺骨が帰っていないので、当然のことながら、繁も父親が建てたこの墓に眠ってはいない。
 
 
高木家の菩提寺「法音寺」(丸亀市南条町4):
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法音寺、山門:
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墓、正面:
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墓、左側面:
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墓、右側面:
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